矛盾ケヴァット

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【バンドリ】二人の戸山香澄、二つの星の鼓動

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Poppin'Partyの箱イベント、『迷子のおもちゃの見る夢は』が開催されました。ガルパの2020年の門出を飾るに相応しい、非常に素晴らしいイベストでした。思い返すに、ガルパの新年一発目のイベントは1年目が『FUN! FUN! CiRCLING FIVE STAR!』、2年目が『ジブン、アイディアル』とどれも傑作と呼ぶに相応しいイベストでしたし、クラフトエッグとしても気合の入れどころなのかもしれません。

おもちゃも楽曲と同じように思い出を復元する力を持っており、また、使われなくなったおもちゃを別の持ち主にあげることで、おもちゃから受け取った愛を再び誰かに渡すことができるというおもちゃのCiRCLINGを描いたシナリオであり、Poppin'Partyらしいテーマを見事な筆致で描いてきました。これだけでも万雷の拍手を贈りたいのですが、それとは別に注目したいのは星の鼓動に新たな側面を加えてきたという点です。そして、それを踏まえて戸山香澄の強さを真正面から描いてきたことに強く感心させられるイベストでもあったとも思います。

 

星の鼓動とは、世界との一体化である

一見難しそうな概念に思えますが、ハッキリ言って、星の鼓動とは何か?という問いの答えは既に出ています。

トクン、トクン、トクン、トクン、トクン――。

自分のためだけに奏でられたような、心地のよい音が聞こえた。

香澄はそれを、星のコドウだと思った。星たちが瞬く時に鳴る、天上のコドウが聞こえる。

見出しの通り、世界との一体化です。香澄がまだ幼い頃、都会の喧騒から離れたキャンプで見上げた満天の星空。星々の明滅と自分の鼓動が重なり合い、自分自身が星々と、そして世界と一体化したような感覚を覚えます。まさに星のカリスマ・戸山香澄の原点とも言うべき描写です*1。引用は小説版からではありますが、現在の香澄が幼少期に感じた星の鼓動もおそらく同一のものでしょう。

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一方、世界との一体化は原点であると同時にポピパの目指すべき最終到達点でもあります。上記の沙綾のセリフにも表れているように、音楽には奏者と聴衆に一体感をもたらす作用を持っています。そもそも、香澄がバンドを始めようと考えたきっかけも、Glitter*Greenのライブで味わった一体感に、星の鼓動と同じものを感じたからなのです。Poppin'PartyとしてCiRCLINGを広げていき、音楽のチカラで、巡り続ける世界を包み込み、世界と一体化する――あまりにも遠大で壮大ですが、間違いなくそれがポピパの志している目的地です。そしてこれは、原点=最終到達点、つまりは始点と終点を繋ぎ終わりのない形にするという意味でもCiRCLINGの概念を踏襲したものです。

 

星の鼓動とは、記憶の底の小さな声である

以上が、今回のイベント以前の星の鼓動の解釈でした。そして、『迷子のおもちゃの見る夢は』によって、この解釈自体は全く損なわれることなく、星の鼓動に新たな意味合いが付加されて――というよりは、元々あった別の意味合いが強化されてきたのです。

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有咲の蔵で発見した太鼓を叩くうさぎのおもちゃを修理しようというのが今イベントの物語の始まりでした。そこから使われなくなったおもちゃを集める運動を学校規模にまで広げていき、やがてうさぎのおもちゃにもバンド仲間がいたことが判明します。最終的に、おもちゃ博物館にいた2体の仲間たちと再会し、うさぎのおもちゃは作られた当時のように、3体で音を奏でるという本来の姿を取り戻しました。

うさぎのおもちゃはおそらく、香澄に見つけてもらわなければ仲間の2体と再会することは叶わなかったでしょう。それ以前に、仕掛けが壊れていたので太鼓を叩くということすら出来ないままだったに違いありません。言わば、うさぎのおもちゃにとっては「また3体でバンドを組む」というのはもう叶わぬ夢だったわけです。

本当はずっと気づいてた 記憶の底 小さな声

懐かしい記憶をたぐって 星がめぐり 届ける声

以上はSTAR BEAT! ~ホシノコドウ~の、同じメロディの一節ですが、まさに今イベントでうさぎのおもちゃが抱えていた思いそのものではないかと思います。諦めてしまった、けれども本当は踏み出したい思い、それもまた星の鼓動なのです。そしてこれはうさぎのおもちゃだけに限った話ではなく、ランダムスターもまた誰かに再び奏でられるのを蔵で静かに待ち続けていました。ポピパメンバーについても同様で、りみ、たえ、沙綾も本当はバンドをしたいという思いを秘めていたものの、それぞれの事情から二の足を踏んでいました。有咲に限っては自分がバンドを組むなどというビジョンは微塵も持っていなかったわけですが、そんな有咲も本当は友達と一緒に楽しい学校生活を送りたい思いを押し留めていたと言えます。そして、こういった思いに気づき引っ張り上げていったのは、常に香澄でした。

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 人間か無生物かを問わず、誰かの星の鼓動(記憶の底の小さな声)を聞き取り、打ち捨てられた思いを呼び起こす力。それが戸山香澄の強さです。それを真正面から、これまでの色々な出来事を思い起こさせつつ戸山香澄の”軸”として描いてきたという点で、今イベントは本当に出色の出来でした*2

 

小説版戸山香澄と現・戸山香澄との星の鼓動の違い

前述のように、「世界との一体化」としての星の鼓動については小説版と現在とで相違は見られません。ところが、「記憶の底の小さな声」の星の鼓動については、星の鼓動を感じる主体が戸山香澄かそうでないかという点で明確に異なっています。

小説版戸山香澄が感じた星の鼓動のそばには、歌もありました。満天の星空の下、解放感とともに歌い上げたきらきら星。しかし、周囲に歌を笑われたトラウマによって歌うことへの渇望を押し殺し、いつしか香澄にとっての音楽は一人きりの信仰になってしまいました。しかし、ランダムスターとの出会いによって、そして山吹沙綾に背中を押されたことによって、あの日の歌への思いを呼び覚まし、まぶた閉じて諦めてたことへと走り出しました。小説版戸山香澄にとって、世界と一体化したあの日の星の鼓動は、そのまま記憶の底の小さな声でもあったのです。

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ところが、現在の戸山香澄にとって、自分自身が押し殺していた思いというのはありません。ああ、いえ、花女高等部に進学する前の香澄の過去がほぼ明かされていないので、より正確には”不明”とするべきなのですが、少なくとも小説版のように世界との一体化と密接に繋がった「記憶の底の小さな声」は無いと考えて良いでしょう。

つまりはアニメ1期に際してキャラクターを一新した際に、香澄から「記憶の底の小さな声」としての星の鼓動が切り離されたわけですが、その結果として無生物をも含んだ”他者”に眠る星の鼓動を聞き届けられる強靭な存在へと変貌したと言えます。

詳しく触れるとネタバレになってしまうのですが、アニメ3期においても今イベントで描写された香澄の強さが存分に発揮されています。また、現在進行形で展開されているメインストーリー2章でも、まさにバンドを諦めてしまった倉田ましろという少女の星の鼓動を察知し、かつてバンドを始めようとした時の気持ちを蘇らせようとしています。

他人の星の鼓動を聞き、かつての思いを呼び起こし続けながら、CiRCLINGを広げていくPoppin'Party。その果てに感じられるものは、きっと幼き日に香澄が一人で感じたよりも遥かに大きな星の鼓動となるはずです。

*1:敢えて注釈も要らないかとは思いますが、星々の明滅がキラキラに、自分の鼓動がドキドキに対応してもいます。

*2:文章構成上省きましたが、『ホープフルセッション』にて月島まりなのかつての思いを綴ったHOPEを蘇らせたバンドには今回★4となった香澄とりみがいましたし、この辺りも意図されたものだと考えています。

【バンドリ】山吹沙綾がCHiSPAを「やりきった」と言えるために ~楽曲により蘇る記憶とキズナ~

アニメ2期のテーマ:楽曲が持つ復元力

バンドリ!アニメ3期が迫っていますが、その前に、アニメ2期とは何だったのかについてざっくり総括しておきましょう。アニメ2期が非常に密度の濃い作品であるため、語ろうと思えばいくらでも語れてしまう深みを持っているのですが、特に重要なポイントとして絞るべきは、楽曲が持つ復元力と、それを土台にしたポピパらしさとは何かです。

6話まではガルパ未プレイの視聴者のためにガルパオリジナルバンドを紹介することが中心でしたが、7話を皮切りに本格的に物語が動き始めます。レイヤこと和奏レイが幼馴染みの花園たえに接近し、2人の思い出の曲であるナカナ イナ カナイを共に歌い上げました。花園たえはこの路上ライブによって、幼少期の記憶を鮮明に思い出すという衝撃を受けます。

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楽曲が持つ、当時の記憶を復元する力。それがアニメ2期を通しての重大なテーマとなっていきます。そしてこれはおそらく、誰しも身に覚えがあるものではないでしょうか。懐かしの名曲を聴けばその当時の情景が思い出されますし、アニメ主題歌を聴けば当時ハマっていたことを思い出し、タマシイレボリューションを聴けばサッカーW杯南アフリカ大会を思い出す。楽曲とは単なるリズムとメロディの羅列ではなく、その楽曲にまつわる記憶とリンクして保存するはたらきをも持っているのです。

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ここで思い出してほしいのですが、2期7話ではナカナ イナ カナイの前に、りみ・たえ・香澄の3人で私の心はチョココロネを演奏しています。花園たえがポピパに加入した場(クライブ)で演奏された楽曲であることを思えば、むしろ私の心はチョココロネこそがたえに原点の景色を思い出させる復元力を持つのが自然であるようにも考えられます。しかし、現実にはナカナ イナ カナイの復元力に容易く塗り替えられてしまいました。何故でしょうか?

おそらく、私の心はチョココロネを原点としているのが花園たえ一人だからでしょう。ああ、勿論、りみにとっても最初に作曲した楽曲なので”原点”のひとつには違いないのですが、その原点の在り方としては相違があると言わざるを得ません*1。一方、ナカナ イナ カナイは花園たえと和奏レイの二人が共有する原点です。この曲は記憶だけでなく、楽曲を通して二人が紡いだキズナをも復元したわけです。この衝撃の直後にレイヤから受けたRASへの勧誘によって、たえは自分の立ち位置を完全に見失ってしまいました。

その後の顛末は周知の通りです。文化祭ライブとの両立が結局できなくなり、関係各所に迷惑をかけてしまいました。そればかりか、RASとしてのラストライブで見事な演奏を披露するたえの姿に気後れしたポピパメンバー(特に有咲と沙綾)が、RAS行きを勧めてしまう始末。それはまるで、たえとポピパとのキズナが絶たれてしまったかのよう。しかし、そんな失意のたえを救ったのもまた、楽曲が持つ復元力でした。それも今度はたえ一人の原点ではなく、ポピパの五人が原点として共有できる曲によって――。

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Poppin'Partyとしての始まりの曲、STAR BEAT! ~ホシノコドウ~。特に上記画像のシーンでは、昨日までの日々にサヨナラするという歌詞に重ねられました。たえもまた、Poppin'Partyに出会うことで、それ以前の自分には戻れなくなったという決定的で不可逆な変化をしていたのです。そして、この不可逆な変化こそが、たえが見失っていたポピパらしさでもあります。何しろ、同じことを痛感していた人物がポピパ内にもう1人いるのです。

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そう、市ヶ谷有咲です。上記画像は2年目の有咲誕生日ガルパライフ『有咲とひとりの蔵』ですが、このガルパライフの公開が『二重の虹』の後であったことを思うと、有咲もまた失敗を経てポピパらしさを無意識的に実感していたと言えます*2

『二重の虹』では、ポピパとして一緒に居られる”今”の価値、そしてその”今”が当たり前でないことが確認されました。アニメ2期ではそれを発展させて、それが当たり前でなくなった時、当たり前に戻るための力を楽曲が持っていることを、ダイナミックな描写とともに証明してきました。

五人だけが 知っていることたぶん

…すぐ思いだす

歌が教えてくれるよ

キズナミュージック♪ 2番Bメロの歌詞は、まさにSTAR BEAT!が五人の原点を復元させる力を持っていることを表したものです。きっと、今後同じような騒動が起きても、また音楽(=キズナ)を奏でればPoppin'Partyの姿を取り戻すことができます。

(いつか 別れが来るの?)

何度でも出会おう!

(思い届かなかった…)

何度も 歌おうよ! 

そして、たえの復帰後に香澄が書いたDreamers Go!の歌詞でも同様のことが歌われています。何度でも歌えば、何度でもポピパによって昨日までの日々にサヨナラしていたことを思い出せる。それが、アニメ2期でPoppin'Partyが獲得した、確かな強さです。

 

CHiSPAを、やりきったかい?

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ここで唐突にガルパに話を移しますが、シーズン2以降、ガルパにおいてPoppin'Partyの箱イベントの中心概念となっているのはサプライズ記念日です。サプライズについては本記事ではこれ以上の深入りを避けますが、記念日の方はまさに楽曲の持つ復元力に類似した概念です。楽曲が記憶やキズナを取り戻せるように、記念日もまた、1年前の今日を思い出すためのきっかけとして機能します。『大切な日の過ごし方』ではたえがSPACEオーディション合格記念パーティを企画しましたし、アニメ2期でりみがサラッと口にしたように、花女の文化祭はポピパにとっての結成記念日になっています。また一方で、『君に伝うメッセージ』が卒業式、『Poppin'ハロウィンパレード♪』がハロウィンを取り扱ったように、各種記念日には区切りの日としての意味合いもあり、ここが楽曲の復元力とは異なる点かもしれません。そして、そんな記念日を増やし続けることで、ポピパの五人は1年というCiRCLINGをどんどんキラキラドキドキできるものへと変え続けています。

ところで、沙綾がCHiSPAに区切りを付けた記念日はいつでしょうか? 母が倒れてライブに行けなかったあの日から自然に疎遠になった経緯を思えば、少なくとも正式な「脱退の日」は存在しません。CHiSPAメンバーが沙綾をポピパに送り出した文化祭の日は辛うじてそれに当たるかもしれませんが、前述のようにポピパの結成記念日としての意味合いが強く、CHiSPAの色合いが濃いと認めるには少々弱いように思えます。即ち、これだけポピパの物語で記念日が取り沙汰されているにもかかわらず、沙綾とCHiSPAにとっての記念日が無いのです。

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これと全く対照的なのが、アニメ2期のたえです。2期10話のRAS 2ndライブでは、事前にサポートギターを辞めることがファンにも告知されており、極めて正式な手続きを経てRASを脱退することになりました。そこからヘッドハンティングしようというチュチュの思惑こそあったものの、ライブを終えた直後のたえの表情は非常に晴れやかなものでしたし、この日がたえとRASが決別した”記念日”と表現しても良いでしょう(それを祝うかはともかく)。言ってしまえば、RASとして”やりきった”花園たえがいる一方で、CHiSPAとして”やりきってない”山吹沙綾がいるという現状がそこにはあります*3

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2期の騒動の渦中で最も動揺していたのは、言わずもがな山吹沙綾です。自らがCHiSPAからポピパへと移ったように、たえもポピパからRASに行ってしまうかもしれない……。それはCHiSPA脱退という過去を背負っている沙綾だからこそ抱えた悩みではありましたが、今となっては問題があると言わざるを得ません。沙綾がポピパのキズナを、音楽を、それが持つ復元力を信じきれていないことの証左でしかないのです。というか、そもそもCHiSPAとの別離を未だ否定的に捉えていることを考えれば、CHiSPAの件を未だに乗り越えられていないという点でも問題でしょう。

 

音楽(キズナ)があるからCHiSPAに戻れる。ポピパにもまた戻ってこれる

以上の事実から、アニメ3期になるかガルパの箱イベントになるかは分かりませんが、沙綾とCHiSPAの今後の展開について1つの予想が立ちます。沙綾のCHiSPA卒業式を企画するというものです。あの当時作れなかった沙綾とCHiSPAの区切りの日を、1年越しに設定する――それも特に、一日限定メンバーとしてCHiSPAに復帰させ、あの日以来のCHiSPA楽曲のセッションを行うようなものになると思われます*4

セッションの結果、CHiSPA楽曲の復元力により、沙綾はCHiSPA在籍当時の記憶を思い出すことになるでしょう。それはあの日の負い目をも蘇らせてしまうでしょうが、同時に、楽しく活動していたことも鮮明に思い返せるはずです。沙綾がCHiSPAの件を乗り越え、それを肯定的なものとして受け止め直すためには、CHiSPAとのセッションは極めて有効な処方箋なのです。

……とはいえ、沙綾のことなので、ポピパに気を遣ってCHiSPAと演奏することを拒みかねません。山吹沙綾はそういう遠慮がちな頑固さを持った人物であり、どれだけ周囲が勧めようとその機会を固辞する反応は容易に想像できます。

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しかし、それは普段の沙綾ならばの話です。記念日は、普段ならば出来ないと思い込んでいることを実行するきっかけにもなる――それがまさに『Poppin'ハロウィンパレード♪』で、つい最近描かれたばかりなのでした。沙綾に心のリミッターを外させるには、その日をCHiSPAの記念日にすれば良い。なればこそ、CHiSPA卒業式は、その条件をも満たす催しになるわけです。そして記念日にすることで、沙綾の中のCHiSPAは決して過去のものではなくなります。1年後の今日に、そして、何年経っても何世紀過ぎても、CHiSPAの一員であったことを思い出せるようにもなるのです。

記事冒頭でも述べたように、今のポピパはSTAR BEAT!さえ奏でれば五人の原点を思い出せる集団へと進化を遂げています。CHiSPA楽曲によってどれだけ当時の記憶とキズナを体感として取り戻そうとも、沙綾がCHiSPAに取られるような心配は、もはや今のポピパには杞憂でしかありません。そしてむしろ、沙綾に対するSTAR BEAT!の復元力は、誕生日の有咲や2期のたえに対するそれとは比較にならないほどかもしれません。あの文化祭の日、誰よりも「昨日までの日々にサヨナラする」ことに成功したのは、間違いなく山吹沙綾なのですから。

「だから何度でも、歌うんじゃないかな」

沙綾は静かに言い、ゆっくりと目を閉じた。

「歌は流れ、継がれる。どんな歌だって、再び歌われるときを待ってる。何年経っても、もう一度、思い出して口ずさむ」

沙綾はいつも、音楽に救われてきた。

「大切なものとは、何度だって出会えるんだよ。何度だって思いだして、何度だって乗り越えればいい。何度だって、昨日の自分にサヨナラすればいいと思うの」

楽曲が持つ復元力はアニメ2期のテーマには違いないのですが、実は小説版の時点から存在していた概念です。小説版では、沙綾のこのメッセージによって香澄が”星の鼓動”を思い出し、STAR BEAT!を完成させました。小説版とはキャラクターが一新しましたが、巡り巡ってCiRCLINGを描き、小説版の山吹沙綾が放ったあの言葉は、今、山吹沙綾自身に突きつけられています

*1:ポピパ加入の決定打となった曲という意味で、たえにとっての私の心はチョココロネにあたるのは、りみにとってはきらきら星です。

*2:なので同じ轍を踏んだ者として、出来ることならば有咲にはおたえの思いに気づいてほしかったところはあります。しかしながら、りみが最もポピパの絆を理解しているように、音楽に触れている時間がキズナの理解力に比例してもいるため、未だ作曲を経験していない有咲ではそこに辿り着けなかったのだろうというのが、現状の僕の解釈です。

*3:とはいえ、レイヤがたえとのバンドを”やりきった”かは、その後の挙動にも未練が見て取れますし微妙と言わざるを得ません。これは3期で回収されそうな要素でもありますが。

*4:ガルパにおいては『ホープフルセッション』で香澄とりみが他バンドのメンバーとのセッションを行うなどしており、沙綾を送り出す準備は万全と言えます。

【バンドリ】「最後の扉」が開いた時に試される、牛込りみの矜持

Poppin'Partyと流動的な役割

Poppin'Partyは5人の役割が流動的に移り変わっていく集団です。

少し表現を変えて、固定的な役割を持たない集団と言い換えても良いでしょう。香澄が引っ張っていくだとか、沙綾が周囲を見守り支えるだとか、傾向と言えるものは勿論ありますが、それは決して不動のものではありません。アニメ1期で香澄が心折れた時には有咲が率先して引っ張る役目を果たしましたし、アニメ2期ではRASに修行しに行ったたえや文化祭の準備で忙しくしているりみに代わって香澄が作曲をしようとしていました。そうやって、1人がその責を負えなくなった時には、他のメンバーがそれをカバーし穴埋めしていくのがPoppin'Partyという集団なのです。

逆に言えば、役割を固定化しようとすると途端に不協和音を奏で始めるというのがPoppin'Partyの本質的弱点と言えます。これはもう、克服できる類のものではなく、おそらく今後永遠に向き合っていく課題でしょう。また、特にそれは「自分の役割」に対して固執する時、一人で問題を抱え込んでしまうという形で騒動を引き起こします。

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それが最も分かりやすく顕在化したのがバンドストーリー2章『二重の虹』でした。成績の下落を理由にポピパの活動を制限されたくないと考えた有咲が、教師を見返すのを自分だけの役割と考え、そればかりか、作詞は香澄の役割、作曲はりみの役割だからと、他メンバーの請うた助けを拒絶してしまいました。アニメ2期のたえの行動も同様に、和奏レイとの運命を好機と感じたたえが、最も欲していた経験をポピパに持ち帰れるのが自分だけの役割と考えたことがそもそもの原因と言えます。そして、いずれの問題も、自分だけで抱え込んだ役割を5人で分かち合うことによって、その解決を見てきました。

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この難解で精妙な概念を、極めて分かりやすく視覚化してくれた図像が、つい最近公式から投下されました。SEIKOコラボウォッチのデザインです。こんなお金の匂いしかしないコラボでこんな本質を凝縮したものが生まれることがあるのか!? と心底ビックリしましたが、兎にも角にも、この左端のポピパを表したデザインは非常に優れています。5人が不定形に交じり合いつつ、その完成形は常に円(CiRCLING)――ああ、いえ、正しくは5人を表した星が重なり合ったデザインなのですが、この5色を流動体だと敢えて曲解することで、極めてPoppin'Partyという集団を理解しやすくなるのです。

アニメ1期で香澄が挫折した時は、図像においてオレンジ色の面積が少なくなった状態だと言えます。しかし、そこで紫色を中心として他の4色がその空白を埋め合わせ、オレンジ色に元の力強さを取り戻させました。そのようにして、Poppin'Partyという完成形(CiRCLING)と他の4人の現状に合うように、自分の在り方を不定形に変えていくというのがポピパメンバーの役割の本質です。これだけを書くとPoppin'Partyは非常に窮屈な集団に思えますが、5人が共に成長していくことで、枠であるポピパというCiRCLING自体が輪を広げていくのです。周囲をキラキラドキドキに巻き込み、終わりのない形を拡大していくことで、Poppin'Partyは5人にとって最も安らげる居場所で在り続けています。

今更言うまでもないことなのですが、BanG Dream!は『バンドもの』です。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボード……このコンテンツにはDJやトロンボーンなどの変わり種もいますが、本来バンドとはパートという固定的な役割があってこそ成立する集団です。そのバンドというフォーマットで、敢えて流動的な役割を描こうとしているのが、ポピパの物語における制作側の”意図”であると解釈しています。

 

「最後の扉」は、ポピパ全員の作曲により開かれる

随分と長い前置きになりましたが、このPoppin'Partyという集団の在り方を、最も深く理解している人物は間違いなく牛込りみです。アニメ2期において、たえが戻ってくること確信し、座して待ち、その時が来た瞬間に市ヶ谷家の蔵ではなくやまぶきベーカリーへと沙綾を迎えに直行した一連の行動は、ポピパの役割の流動性を理解していなければ絶対に起こし得ないものでした。彼女こそ、ポピパイズムの真の体現者と称されるべきでしょう。

ところが、まるで皮肉であるかのように、牛込りみはポピパ内において作曲という固定的な役割を背負っています。詞も含めて、ポピパの楽曲は5人がある程度共同作業をしながら完成させていくというのは何度か作中でも描写されましたが、それでも基本となるメロディラインはりみがそれなりの形に仕上げてから持ってきます。

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その”通例”とも言える作曲過程を打破したのが、アニメ2期において花園たえが作詞・作曲したReturnsでした。Returnsが披露されるまでの流れがあまりにドラマティックであったために目を逸らしがちですが、この瞬間、作曲がポピパにおける牛込りみの専売特許ではなくなりました*1。この直後に、たえとりみの負担を軽減しようと作曲に挑戦していた香澄もDreamers Go!を完成させ、あっという間に作曲者が3人に増えてしまいました。そう、流動的な役割を描くPoppin'Partyの物語において、作曲者という役割がまさに現在進行系で流動化している最中なのです。間近に迫ったアニメ3期か、或いはガルパのバンドストーリー3章かは分かりませんが、今後遠くない内に、間違いなく、有咲と沙綾も作曲を経験するでしょう。

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少なくとも、有咲については既にその伏線が張られています。画像の出典は『新しい季節、その前に』イベントの★2[有咲のセッション]市ヶ谷有咲の左エピソードです。かなり容易に入手できるカードなので(当該イベントをこなさなかった方でもミッシェルシールで獲得できます)、未読の方は御一読頂ければと思います。『二重の虹』でりみに迷惑をかけたことに罪悪感を覚えている有咲が、有咲らしく素直でない方法で罪滅ぼしをしようと目論んでおり、その手段がズバリ作曲なのです。『新しい季節、その前に』が2018年秋に開催されたイベントであることを考えると、むしろ有咲としては、たえと香澄に先を越されたと言っていいくらいです。有咲が作曲をする準備は、もう万全に整っています。

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小説版では、ポピパメンバー全員が作曲を経験し、そして文化祭ライブを前にして物語の幕を閉じました。以前の記事でも触れた通り、ここに来て直近のポピパ楽曲に小説版の影が見え始めていることを思うと、小説版ポピパの1つの到達点=全員の作曲に、現在のポピパが至るというのも美しいCiRCLINGであろうと思います。

ところで、上の画像は小説版BanG Dream!最終章の扉ページスクリーンショットです。出版用語で、本を開いて最初にタイトルが表示されているページや、各章を分ける区切りのページを『扉』と呼称します。つまり、このページこそ、小説版BanG Dream!における「最後の扉」です。これは『キラキラだとか夢だとか ~Sing Girls~』のCパートに登場する印象的なフレーズに接続します。

かたく閉ざされた 最後の(届かない)

とびら 解き放つものはなに?(それはなに?)

夢の地図を ぜんぶつなぎあわせて

”音楽(キズナ)”という 魔法の鍵を見つけること

キズナミュージック♪が高らかに歌うように、ポピパのキズナ=音楽です。そして、「最後の扉」には全員が音楽=キズナを作り上げた姿が刻まれている――ならば、その扉を解き放つものは、夢の地図=5人それぞれが未来を見据えて作り上げた楽曲を繋ぎ合わせることです。あと2人、有咲と沙綾が作曲(そしておそらく作詞も)を経験した時、1期以来の、そして小説版以来の最後の扉が開かれることになるでしょう。

 

ポピパ全員が作曲した時に、牛込りみに訪れる試練

5人が作曲を経験することは、おそらくポピパの1つの到達点です。それ自体は間違いなく喜ばしいことだとは思いますが、それは同時に作曲者という役割の完全な流動化をも意味します。これまではりみが一手に担っていたことを、全員ができるようになるわけですから、まさしく冒頭に示したPoppin'Partyの不定形な在り方を体現したものになるはずです。

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ところが、牛込りみの性格を考えれば、その状況は深刻なアイデンティティ・クライシスを引き起こしかねません。『バンドガールズ・オブ・ザ・デッド』で特に強く描写されましたが、牛込りみは今この状況で、自分は何ができるか・何をすべきかを常に考えている人物です。2期クライマックスにおいて沙綾を迎えに行った時も、1期3話で姉のピンチのためにきらきら星のベースラインを奏でた時も、ゾンビに扮した丸山彩に勇敢に立ち向かった時も、いつだって彼女は状況と周囲に合わせた最適な行動を模索していました*2。そんなりみにとって、ポピパの全員が作曲できるようになる状況は、もう自分が作曲しなくても良いのではないかと一歩引いてしまう危険性があるのです。

f:id:halkenborg:20191226221443j:plain因果応報というか何というか、最初期のイベント『りみのプレゼントソング』では、作詞という香澄の役割を奪っています。敬愛する姉・牛込ゆりに贈るバースデーソングであるからこそ、自分で作詞がしたい。その一心で、それこそ作詞という役割を流動化させたものでしたが、彼女のことですから、その逆もまたあり得ます。他のメンバーの意を汲んで、作曲の役割を譲る。それが続いてしまうと、Poppin'Partyの楽曲群において、牛込りみの色というのはどんどん失われていってしまうやもしれません。これまでは牛込りみのポピパイズムへの忠実さは非常に心強くポピパを支えてきましたが、ポピパイズムの体現者であるからこそ、役割の流動化が進行した際に個としての拠り所を喪失してしまう不安を孕んでいる人物でもあるのです。

したがって、Poppin'Partyの作曲者が5人になった時、それでもPoppin'Partyのメイン作曲者として居続けるための矜持を獲得すること――それが、「最後の扉」を開いた後に、牛込りみの物語における最大の試練になると予想されます。

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思えば、同様の壁にぶち当たったのが『ひたむきSong for me』でした。楽曲の制作に行き詰まったりみが、自身の楽曲を姉・牛込ゆり率いるグリグリ楽曲の劣化コピーのように感じ、思い詰めてしまったイベントです。これを「身近な作曲者の存在に気後れして一歩引いてしまったこと」くらいに抽象化すれば、今後危惧される牛込りみの試練と同根の課題であったと言えます。最終的に、このイベントでは沙綾の助言もあり、周囲の影響が今の自分を形成し、自らも周囲に影響を与えていることを確認し、りみは大きな成長を遂げました。

であれば、おそらくりみがその試練を乗り越える道筋も、ReturnsやDreamers Go!、そしてまだ見ぬ有咲や沙綾の生み出す楽曲に、4人が生み出す楽曲に、確かにりみの影響が宿っていることが確認されることになるものと思われます。その時に、牛込りみは本当の意味での作曲者としての矜持を手にするのではないでしょうか。影響し、影響され合う。それもまた、循環しながら新しい場所へ向かい続ける物語に違いありません

*1:無論、元来たえは即興で作曲できる人物でしたが、作中で描写されている範囲においてはポピパ楽曲にりみ以上の影響を持って反映されたことはなく、「りみが専売特許を失った瞬間」としてはReturnsの披露が最適だと認識しています。

*2:『バンドガールズ・オブ・ザ・デッド』は奥沢美咲が自身の主人公性への自覚に欠けていることを詳らかにしたイベントでもあり、異常な状況で素早く自身を主人公へと切り替えたりみとの対比が極めて鮮やかです。

【キコニア】イシャクの『あり得ない発言』と、そこから見えた2人のスパイ

実を言うと、前回の記事は、今回の記事の前書きとするつもりだったもので、思いのほか筆が乗った上に本筋から脱線していったため、独立させたものだったりします。

というわけで、その本題編とでも言うべき今回の記事のテーマもやはりスパイです。本記事では、ABNとACRの2陣営のスパイについて、根拠ある仮説を立てたものとなります。

 

ジェストレスの送り込んだスパイや、或いは自らスパイ活動をしている藤治郎は上位陣営から下位陣営へと放たれた”縦方向”のものであるわけですが、本来スパイとは横方向に放つものです。国から他国に、会社から他社に、警視庁から雛見沢に、対立関係にある組織の情報を得るべく差し向けられます。であれば、キコニアにおいてもある陣営が別陣営に対して送り込んだスパイが存在しても良いでしょう。

とはいえ、国家がスパイを管理するためには、CIAやKGB(現FSB)といった諜報機関が必要なはずです。果たして、作中にそんな組織が登場したでしょうか?

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分かりにくいですが、実は堂々と登場しています。善導省がABNの諜報機関なのです。上記画像のシーンは、ACRリビア付近の難民キャンプの平和指導者が、何故かABN統合軍仕様の緊急発信機を所持していた事実を受けたスタニスワフの発言です。善導省がACR難民キャンプの平和指導者を抱き込み、ABN側のスパイとしたことが窺えます*1。更には、7章『三人の王』のニュースにて、善導省が工作員を送り込んでいるとまでハッキリ書かれており、善導省が諜報機関に相当することは間違いないものと思われます。

無論、こうした諜報機関は全ての陣営に存在するに違いないのですが、実際に名前が出てきた善導省は特別物語に関連すると見るべきでしょう。そして、難民キャンプの平和指導者と同様に、ACRのガントレットナイトの中にもまたABN善導省が抱き込んだスパイがいる疑いがあるのです。次の画像でのイシャクのセリフは、それをかなり印象づけるものでした。

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Phase1終了時点においてABNとACRについては陣営内の描写に乏しいという現状がありますが、現時点で公開されている情報だけでも、このセリフに強い違和感を抱くには十分です。TIPSからも読み取れる通り、ACRはアフリカの文化・宗教を温存しながら統一を成し遂げた歴史を持っており、ACRにおいて「神」という言葉は極めてデリケートに取り扱う必要があるはずです。ABN以外の地域では宗教が統一されないままキリスト教イスラム教が信仰されている可能性も少なからずありますし*2、元来アフリカはアニミズム的な信仰も盛んです。また、非常に少ないですが仏教徒ヒンズー教徒もいるでしょう。そんなACRの価値観を念頭に置くならば、これは率直に言ってあり得ない発言です。AOUでは貧富の差に対して特に厳格に会話フィルターが適用されるとのことでしたが、ACRのお国柄を考えると、こうした宗教的な発言にこそ会話フィルターが適用されてもおかしくないくらいです。

現実には会話フィルターは作動していませんので、ACRの発言規制基準についてはこれ以上の深追いは避けますが、状況と相手次第ではハラスメントに該当してもおかしくない発言なのは確かです。また、意味合いから言って上記のセリフは運を天に任せるという表現で足りたはずで*3、わざわざ「神」という単語を用いていることには意味があるはずなのです。つまり、イシャクこそがABNからACRへのスパイで、上記の発言はABNの統一宗教を信仰しているイシャクが、うっかりその馬脚を現したものだったんだよ!!

……と、僕も最初はそう考えていました。しかし、どうも引っ掛かる。冷静沈着を絵に描いたようなキャラクターであるイシャクが、そんな凡ミスをするでしょうか。そして、我々が愛するなく頃にシリーズとは、こうも単純なものだったでしょうか。……あぁ駄目だな。全然駄目だぜ。

 

ここでチェス盤をひっくり返すぜ!

うっかりだとか凡ミスだとか、イシャクがACRでは本来あり得ない発言をしてしまった、と考えるから良くないのです。そうではなく、イシャクの視点に立って、何故イシャクがあり得ない発言をする必要があったのかを考えるべきなのです。そうすることで、ひとつの答えが見えてきます。イシャクはスパイなどではなく、むしろガントレットナイトの中にABN善導省からのスパイがいることを疑っていたのでは……?

当初の僕がスパイの嫌疑をかけてしまったように、イシャクの発言はACRならあり得ないもののABNでは至極普通の価値観です。もし、ABNの統一宗教を信仰している者がこの発言を聞いたなら、絶対に抱くはずの違和感を持たず、むしろ同調する可能性が高いと考えられます。その反応を見せた人物を、スパイだと疑える。そう、イシャクの発言はうっかりや凡ミスなどでは決してなく、身内に潜んだ内通者を炙り出すための高度な誘導尋問だったのです。

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最初に反応したのはリーテバイル。実に当然のリアクションと言えるでしょう。宗教が複雑に入り組んでいるACRにあって、突然戦場で部下が神頼みしようなんて言い出そうものなら、怪訝に思うのも無理はありません。

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続いてアブドゥ。こちらは「神」に対しては特に触れませんでしたが、運任せ自体には否定的な反応と言えます。「神」の方を否定してほしかったところですが、まあ推定無罪と言ったところでしょうか。

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マヌケは見つかったようだな!!

本当の馬脚はこちらに現れていました。何の抵抗もなく、イシャクにつられて「神」というポリコレ違反ワードを使い、あまつさえ神頼みをしようとしています。ここに、イシャクの誘導尋問は結実しました。ヌールこそが、ABNからACRへのスパイです。

なお、僕が当初イシャクを疑っていたのは、出身国であるACRアルジェリアが紛争地帯であるACRリビアの隣国であることも弱めの根拠の一つでしたが、ヌールの出身国であるACRエジプトも同様にACRリビアと国境を接しています。ABN善導省からすれば、工作を行うのは容易な地域と言えるでしょう。

 

そしてこの仮説はもう1つの可能性を示唆します。それが、ジェストレスがACRに送り込んだスパイもまたヌールであるというもの。ええっ!? ヌールはABN善導省がACRに差し向けたスパイで、ジェストレスとは無関係なのでは!?

これは単純な話で、善導省自体がジェストレスの管理化にあるとすれば、自動的にヌールもジェストレス配下のスパイになるのです。この場合、ヌールが直接ジェストレスとコンタクトを取っていなくてもジェストレスにとっては自分のスパイと同等です。ヌールが善導省に送る報告は全てジェストレスにも渡るのですから。無論、直接ジェストレスと連絡している可能性も十分にあり、ここは本当に『どちらでも良い』ところです。

ところで、Noorという名前は、アラビア語を意味するそうです(参考リンク)。光といえば、アインシュタイン相対性理論時間や空間ではなく光の速度こそが<絶対>という世界の真理を明らかにしたものでした。ヌールとジェストレスは、<絶対>という概念で接続できるキャラクター同士と言えるのです。

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善導省が怪しいとすれば、もう1人ジェストレスのスパイとして疑わしい人物が浮上します。善導省を古巣としているレアです。というか、諜報機関が古巣な時点で、仮にジェストレスのスパイでなくとも一物抱えたキャラクターなのは間違いないでしょう。

また、レアについてはユダヤ教徒を代表する人物であることも念頭に置く必要があります。物語の鍵を握る聖イオアンニスの黙示録は、史実とは異なり新約聖書に編纂されないまま歴史の闇に葬られましたが、そもそもにしてユダヤ教新約聖書聖典として認めない立場です。彼女が敬虔な(そして過激な)ユダヤ教徒であるならば、宗教上の理由が聖イオアンニスの黙示録に立ち向かう動機になり得るのです。

えっ、ABNはアブラハムの宗教を統一したんだからユダヤ教徒なんているはずないって? ハハハ、やだなあ、本当に3宗教が統一できてるんなら、イェルダット・シャヴィットなんて”融和の象徴”自体が必要ないじゃないですか。3宗教の間に未だに軋轢があるからこそ、イェルダット・シャヴィットの広報活動が必要なんですよ。

 

以上が、イシャクの発言に端を発したACRおよびABNのスパイ推理になります。記事中盤でも触れましたが、Phase1で多分に描写が割かれたAOUや、その片鱗がいくらか覗けたCOUに比べ、この2陣営については情報不足すぎるのが現状です。しかし、うみねこもEP1の時点から真相に到れる程度のヒントはきちんと提示されていた作品でした。竜ちゃんの性格的なことを考えても、Phase1の時点でスパイは割り出せるように出来ていると考えるのが筋なように思います。そんな中で、情報が少なすぎる2陣営のスパイを割り出す手段は、善導省を鍵とするような手段しかないのではないかと考えています。もっとも、冒頭に挙げた記事にも書いたように、スパイを各陣営1人だと断定するのは危険なので、他にもスパイがいる可能性は考慮していきたいところです。

 

おまけ:ABNの省庁まとめ

以前、ふせったーにまとめたものを多少書き換えて再掲します。僕の見落としがなければ、作中で登場したのは以下が全てかと思います。善導省以外では、ファトマの古巣である宣教省と、全てが謎に包まれている神託省が不気味な存在です。

  • 平和省:おそらく国防総省に相当。軍事全般を管轄とする。ガントレットナイトもここに所属
  • 善導省:本記事の主役。CIA的な諜報組織。レアの古巣
  • 宣教省:ファトマの古巣。ファトマのブログ活動も加味すると、ナチスの宣伝省が最も近い存在と思われる
  • 友情省:外務省に相当すると作中で明言された
  • 健康省:おそらく厚生労働省に相当。ナオミがここから傷病手当を貰っている
  • 神託省:名前からも作中の描写からも全く実態が見えない謎の省庁。AOUロシアによるウクライナ西部の編入に再三の中止要請を出していることだけが明かされている

*1:この少し前のシーンでも、ACR将校がこの平和指導者をスパイ疑惑で逮捕しようと勇んでいた描写があります。

*2:周知のようにキリスト教イスラム教・ユダヤ教の「神」自体は同一ではありますが。

*3:まあ「天」自体が古代中国の思想なので、この表現自体も宗教性を排除できているとは言い難いのですが。

【キコニア】ジェストレスの送り込んだスパイの”人数”

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キコニアにおける謎解き要素の”掴み”とも言えるのが四大陣営に送り込まれたスパイ。LATOを除いた4つの陣営が誇る2組のエースケッテ6人の中に、1人以上のスパイを潜入させることに成功していると明言され、開幕から読者を疑心暗鬼の渦へと叩き落としてきました。

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ところで、このスパイの人数ですが、ジェストレスは必ずしも各陣営1人と発言してはいないことに留意する必要があります。ジェストレスは「各陣営に潜入させた」と表現するにとどまり、実際の人数を口にしたのは怒りの王。それに対してジェストレスは明言を避けるかのように答えをはぐらかしています。

そもそも先天性PP設定が存在する以上、キコニアのなく頃にという作品においては人数の定義自体も問題になってきます。都雄とミャオを1人と数えるのか2人と数えるのかは極めて大きな人権問題ですし、ガントレットナイトの3~6割が先天性PPである以上、肉体の総数24に対して、人格の総数が現状は不透明。極端かもしれませんが、24人(肉体)の中にスパイが25人(人格)以上いたって何も不思議ではないのです。

付言するならば、うみねこがそうであったように、僕は肉体の総数が24すらも疑わしいとさえ思っています。あくまで例ですが、イェルダット・シャヴィットが1つの肉体に存在する3つの人格であるようなことすら考えられるでしょう。基本的に別陣営のキャラクターとはごく一部の例外を除いてセルコンを介してしか対話していない彼ら彼女らは、オフ会をしていません*1。大浴場でのアバターの姿しか知らない以上、他陣営の人物について肉体がどうなっているのかを知る手段はほぼ無いのです。そう考えると、大浴場という肉体を包み隠さず曝け出す場がチャットルームの背景に選ばれたのは一種の皮肉でさえあります。

さらに皮肉なことに、クリスマス決戦がお疲れ様大浴場の最初のオフ会になってしまいました。きっと、Phase2ではアバターだけでは与り知れなかった各キャラクターの素性が明かされていくことでしょう。セシャトも「最後には人間と人間が目を合わせて真意を測るべき」だと言ってましたしね。とりあえず、B3Wの現代でもお馴染みの”常識”で、本記事を締めくくりたいと思います。

 

ネット上の知り合いとリアルで会うのは気をつけよう!!

*1:なお、お疲れ様大浴場の結成にあたって、AOU側から他陣営のキャラにコンタクトを取ったのはギュンヒルドです。このため、少なくともギュンヒルドは他陣営キャラとオフで対話をしたか以前からコネがあったかということになり、彼女のスパイ疑惑を大きく高めている要因でもあります。

【ガルパ】ハロハピの終着点と、理念を一人歩きさせた王子様

『幼き日の面影は今もそばに』、非常に素晴らしいイベントストーリーでした。

役者で居続けることで「本当の私」が消えてしまうのではないかと怯える白鷺千聖と、彼女を救える王子様になるために「本当の私」を脱ぎ捨てた瀬田薫。確かに、瀬田薫は変わってしまったと言えるかもしれませんが、当時抱いていた強き思いは、そして潰されかけていた幼き日の白鷺千聖から受け止めた「本当の私」は、今でも確かに息づいている――。そんな薫が出演する『孤独の街』は、きっと瀬田薫が演じる、幼少期の「本当の白鷺千聖が見られるに違いありません。ひまりから思い出話を聞かせてほしいと請われた薫はそれをはぐらかし、舞台への観劇を誘いますが、それもそのはず。その舞台では、瀬田薫と白鷺千聖の在りし日が、言葉よりも雄弁に演技によって語られるのですから。

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さて、本イベントは『儚世に咲く薔薇の名は』で仄めかされて以来2年半近くの歳月を経てようやく明かされた瀬田薫と白鷺千聖の幼少期を描写してくれたことでも、またそれがひとつのヒューマンドラマとして結実していることでも称賛の拍手を贈るべきものです。しかし、もう一つ特筆すべきことがあり、本イベントによって、瀬田薫がハロハピの行く末を照らし出せる存在になりました。本記事ではそこについて、考察していきたいと思います。

 

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周知の通り、瀬田薫が所属するハロー、ハッピーワールド!の合言葉は「世界を笑顔に!」です。合言葉であると同時に、ハロハピにおける壮大な目的であり理念でもあります。ハロハピは音楽活動を通じて、骨折からリハビリに踏み出せない少女に勇気を与えたり、寂れてしまった遊園地を立て直したりと、奇想天外な行動をしながらも着々と笑顔を増やすことに成功してきました。

ところで、この世界を笑顔にする物語は終わることができるのでしょうか。常識が通じないのがハロハピですが、世界中の全員が笑顔になるなどということは、常識的に考えれば不可能に思えます。であれば、延々と終わりの見えない旅を続けることになるのか、それともどこかで諦めて歩みを止めてしまうのか……。

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この懸案事項については、★2[ステージ]奥沢美咲の左エピソードという最初期の時点において既に触れられています。目的を果たせないまま終わってしまったブレーメンの音楽隊と、今の自分達の姿がどうしても重なってしまうことに、当時まだ「キグルミの人」であった奥沢美咲は一抹の不安を覚えていました。

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幸いにも、この答えもバンドストーリー1章の時点で弦巻こころが提示しています。誰かが笑顔を忘れてしまったら、別の誰かが笑顔を思い出させ続ければ良い。そのためにこそ、ハロハピの理念をあまねく世界に知らしめ、「笑顔を思い出させる人」を増やしていく必要があるということです。

そして、この理念が一人歩きした時、ハロハピはその歩みを止めることができます。ハロハピの理念の共感者が、他人に笑顔を思い出させる実践者になり、その理念が樹形図のように広がっていけば、もはやハロハピが直接活動しなくとも「世界を笑顔に!」していけるものと考えて良いでしょう。それは本当に世界中が笑顔になるものではないかもしれませんが、その未来を想像するには十分なものです。奥沢美咲は目的を達せられなかったブレーメンの音楽隊になってしまうことを懸念していましたが、むしろ不完全に目的を達したブレーメンの音楽隊になることこそがハロハピが最終的に目指すべき姿なのではないでしょうか。

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ガルパライフ第132話「お別れのとき」では、そうやって理念が一人歩きしていく姿がビジュアルをもって示されています。ここでははぐみのぬいぐるみ達がその役目を負いましたが、これを多くの人間が行う未来こそが、ハロハピの終着点です。いずれやって来るハロハピの活動との別れは、自分達の理念が広く行き渡ったという確信のもと、おそらくは笑顔で訪れるものでしょう。

 

ここで話を瀬田薫に戻します。上記のハロハピ全体を貫くテーマを考慮して『幼き日の面影は今もそばに』を読むと、興味深い構図が見えてきます。瀬田薫という存在自体が「理念の一人歩き」の成功例であるということです。

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役者でいることで、自分らしい感情を失ってしまうのではないか。最終的に白鷺千聖はその恐怖をも役者人生に活かしていくことで乗り越えましたが、やはりあのまま芸能活動を続けていけば、いつか潰れしまうのではないかという危うさを孕むものでした。瀬田薫が役者の道を志したのは、その時の”ちーちゃん”の強さに憧れたというところが大きいのですが、同時にそんなお姫様が立ち上がれなくなった時に救ってあげられる王子様になりたいという決意の表れでもあったでしょう。

結果的に、白鷺千聖Pastel*Palettesという共に芸能界で運命を切り開いていく仲間を得たため、そんな王子様は不要となります。臆病な自分を脱ぎ捨てることはできたが、お姫様を守る必要はなくなった。そう考えると、瀬田薫の王子様像は、目的を不完全に達しつつ理念だけが一人歩きしたものと解釈することができます。

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本イベントは、弦巻こころの勧誘を何故ああもあっさりと瀬田薫が受諾したかの答えにもなっています。あの日役者を志すきっかけをくれた”ちーちゃん”と同じ言葉を、こころがバンドという形で口にしたからです。そしてこれは同時に、白鷺千聖がパスパレという共同体を得たことで失われた王子様の理念を活かす場所を、瀬田薫が獲得した瞬間でもあります。

そのハロハピはやがて、理念を一人歩きさせる必要に迫られるでしょう。その際には困難や衝突に見舞われるかもしれませんが、もはや心配ありません。現在進行系で理念の一人歩きを成功させている王子様がいる。世界を彩る役者は、きっと彼女達の大きな道標になってくれるはずです。