矛盾ケヴァット

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【キコニア】駒やめますか? そしたら、思考やめますか?

まーたまたまたキコニア記事が久々になってしまいました。キコニア記事どころか、どうやらブログ記事自体がかなり久々みたいです。知らなかったんですが、はてなブログって1ヶ月更新しないと登録メールアドレスに催促のメールが届くんですね。はてなくん、こんなことする子だったの? 幻滅しちゃったな……。

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本記事はその催促に応じたからというとそんなわけでもなく、きっちりと記事を上げるに足る閃きを得てのものになります。というのも、かねてから僕を悩ませていた駒の定義について、ようやく筋の通った仮説を思いつくに至りました。えっ、延期してなければPhase2が発売していたような時期に!? 悠長だな……。本来ならこうだったさ。思いついた時にはもう、発売している。

 

そもそも、駒とは何か?

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なく頃にシリーズの前作「うみねこのなく頃に」と同様、キコニアの作中でも頻出するワード、“駒”。あまりにも自然に飛び出してくるので「そういうもの」として受け取ってしまう危険性があるのですが、少なくともキコニアPhase1において、この駒という概念が定義されたことはありません

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うみねこでは「下位世界にいる人物」が自動的に駒であったため、わざわざ赤で宣言するまでもなく駒の定義は自明でした。ところが、キコニアでは藤治郎の元嫁という「駒でなくなっている人物」が存在する上に、うみねこのようなメタと下位の分かりやすい境界線が引かれていません。そう、我々はまず、駒と、駒でない人物を区分するところから始めないといけないのです。キコニアに比べると今ではうみねこが物凄く親切な作品であったかのようにさえ思えます。

とはいえ、巨大サーバーへの移住や脳髄ぶっこ抜き工場後の<天国>が実現すればメタと下位の線引きまでは可能なのも事実です。うみねこ的なゲーム盤構造を援用するならば、サーバー内の住民が駒、サーバーの管理者がGMであり、サーバーを取り囲んで何かのゲームを企画すればサーバーを取り囲む第三者はプレイヤーになるでしょう。この想定で言えば、駒であるかないかの違いは肉体の有無ということになります。脳髄をぶっこ抜かれた者は最早駒でしかなく、肉体を存続させている何者かに延々玩具にされ続けるわけです。当初は僕もこうした想定でいました。

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ですが、その考えは登場人物達の駒としての苦しみに寄り添えてないと言わざるを得ません。過熱する世論の見世物にされていた子供達、クリスマスパーティで引き起こされた惨劇、はたまた藤治郎が報道将校として感じていた駒としての苦悩に共通するものは、自分の意志に反した行動を取らされることへの無力感でした。巨大サーバーへの移住や脳髄ぶっこ抜き工場後の<天国>はまさにそういった無力感からの解放として夢想されているものであり、言ってしまえば駒の立場から逃避できるからこそ魅力的なものとして、時折都雄達を誘惑してきたわけです。ここに、うみねことキコニアの間で、”駒”という概念へのねじれが生じます。うみねこ式ゲーム盤を想定すると肉体を捨てたら駒になってしまうのに、キコニアの人物達に寄り添うと肉体を捨てれば駒を脱却できる(ように錯覚する)わけです。以上のことから、うみねこ的なゲーム盤構造でキコニアの駒を規定することは出来ないと考えた方が良さそうです。

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ですが、同じ”駒”という概念を扱った前作として、うみねこが何一つ考察の役に立たないわけではありません。構造こそキコニアとは似て非なるものと断じざるを得ませんが、駒に与えられる制限は、うみねこもキコニアと同様と考えて良いでしょう。うみねこの駒はGMやプレイヤーが望みさえすれば盤上で与えられた役割の範囲内でなら当人の行動様式に反する行動をさせられるものでした。であればこそ本来なら倫理的に躊躇する大量殺人にも加担し、人の命を弄ぶかのようなグロテスクな死に様をも彩ってもいたわけです。手を汚すことへの葛藤が一切描かれなかっただけで

うみねことキコニアの”駒”の共通点はここに見出だせるのではないかと考えます。即ち、自分の意志に反した行動をさせられてしまう存在=駒であると。ああ、いえ、”意志”ではやむを得ない決定もまたその範疇に含まれる表現になってしまうので、より正確を期すならばこう改めるべきでしょうか。自分の感情にそぐわない行動をさせられてしまう存在こそが駒である、と。

 

脳髄不要論 ~地下研究所の実態~

駒が上記のように定義できたということは、裏を返せば自分の感情の赴くままに行動できる人物は駒ではないとも言えます。それを踏まえた上で、駒でないことが明言されている「藤治郎の元嫁」として最有力であるフィーア・ドライツィヒと、彼女が所属する地下研究所(聖櫃騎士団)を考察すると、かなりおぞましい実態が見えてきます*1

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象徴的なのが当初は三人の王のスパイとして送り込まれた博士でしょう。頭部が水平に切り取られた、異形の存在へと成り果てています。どうやって生命活動を維持しているかはさて置き、彼の脳は抜き取られたか、切り取られたかされているわけです。彼を“駒”でなくするために

脳髄ぶっこ抜き工場の描写で肉体が廃棄される描写があったため、A3Wには脳だけを生かす技術がおそらくあるのでしょう。ですが、だったらその全く逆があってもいいのでは? 即ち、脳を捨てて肉体だけの状態で生き永らえさせる技術。言わば、肉体不要論ならぬ、脳髄不要論――。この技術により研究所で活動している面々は脳味噌という理性のブレーキを捨て去り、ただ本能だけで叡智の翻訳をしていると考えられます。そしてそれは、己の感情を否定しながら行動しなければいけない駒という立場からは、確かに一線を画した存在でもあるのです。

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無論、フィーアがマリオを指して語るとおり、もはやそんな存在を人間とは呼べないでしょう*2。人類最高の頭脳であった彼女らは、もはや頭脳を、そして思考を放棄した存在でしかありません。フィーア達のやり方を取るならば、駒を辞めることは人間を辞めることと同義なのです。

フィーア達は物理的に脳を切除するという極端な手段で駒からの脱却を達成しましたが、問題の本質は脳の有無ではなく思考を放棄しているかどうかです。むしろ、フィーア達の場合は世界最高峰の頭脳であったが故に思考を放棄することが難しく、脳の切除という大胆極まりない手段に出た可能性すらあります。

青都雄が都雄にそうさせようと目論んでいるように、思考を辞めた時、その人物は駒と人間を同時に辞めることになります。ただの人間ならばそれで済むのですが、ガントレットナイトが自分の頭で考えるのを辞めてしまった場合、もう1つ特殊な現象が起こると考えられます。

 

思考を放棄したガントレットナイトが、黄金ガントレットを扱える

前回のアイシャをスパイと割り出した記事にて、ガントレットが国家に管理されているから都雄達が身動きできないが、黄金ガントレットのようにその限りでないガントレットもある……という事実を根拠に、都雄達が独立国を作っていくことになるだろうという旨の主張をしました。この「国家に管理されていない」というのは、言い方を変えれば駒ではないとも表現できます。国家に感情を抑圧されずにガントレットの能力を自由に使える……本記事の駒の定義とも重なる部分です。

ですが、ここまで議論してきたように、駒を辞めるということは感情に身を任せて思考を放棄するということでもあります。つまり、思考を放棄してしまったガントレットナイトだけが使えるのが黄金ガントレットである……そんな呪われた装備のような想定も可能になってくるわけです*3。そして、現に、作中で登場した黄金ガントレットの使い手は、思考の放棄をしているかまではともかく、感情に支配された人物ばかりでした。

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激情に駆られて我を忘れてしまった鈴姫。

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盲目的な恋心ゆえに暴走してしまったと思しきジェイデン。

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そして都雄を止めるという使命感から自らを「プログラム」とさえ言い放つ青都雄です。

特に青都雄の場合は思考を放棄しているとは言い難い面もあるため、この説が微妙に通らないところもあると思うのですが、彼(?)の目的は都雄の思考を放棄させようとしている(=駒から脱却させようとしている)ことにあり、動機と行動が綺麗に一致します。もっと言えば、青都雄とケロポヨ達の奥様=都雄の母親=マザーコンピューターは反目する関係にあり、都雄の母親は都雄を駒にするために生んだと発言してもいます。この二者の対立関係的にも、青都雄が駒を辞めた状態にあるという本記事の説は、かなり収まりが良いのです。

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Phase1を通して、駒という存在にはネガティブな描写がされ続けてきましたが、駒が自分の感情を押し殺して行動できるのは、きちんと脳と理性を駆使して感情を制御しているからです*4。駒を辞めようと思えばそれは思考の放棄に陥り、そしておそらくは現実に、Phase2で鈴姫やジェイデンがその落とし穴にハマってしまうことになるのではないかと思われます。

以上のことから、キコニアのなく頃には、駒であることを否定するのではなく、駒であることを受け入れた上で思考の限りを尽くして戦い抜く物語になっていくではないかと思われます。思考を辞めたら、その時点で人間ではなく、ノミと同類なのですから。

人間讃歌は思考の讃歌ッ!! 人間の素晴らしさは思考の素晴らしさッ!!

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*1:藤治郎の元嫁=フィーア自体ミスリード臭くはあるのですが、フィーアの関係者(クローンとか)には違いないでしょうし、藤治郎の元嫁であるか如何に関わらずフィーアが駒を辞めている可能性は高いと考えています。

*2:フィーアの初登場時、研究所が「人ならざる者の世界」と表現されてもいます。

*3:敢えて言及する必要もないとは思いますが、黄金ガントレットを装着した少女達と地下研究所には密接な関係があるはずです。

*4:うみねこの駒はこの点が異なりますが、少なくともキコニアの駒はそうです。