矛盾ケヴァット

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恥の多い生涯 VS 恥を隠す人形 ~BanG Dream! It's MyGO!!!!! 13話感想~

絆創膏でも塞げない傷

前回のにゃむの意味深な発言から2週間。様々な憶測が飛び交い、もしかしたら実は豊川家が没落してない可能性もあるのではないかという説まで出ていたのですが、蓋を開けると祥子さま、コールセンターのバイトやってました。想像の遥か下を行く没落っぷりだよ!! 豪邸がまだ残っていることなど、まだ不審な点はいくつもあるのですが(後述します)、とりあえず豊川家の経済状況が思わしくないのはほぼ確定的になりました。

まあ月ノ森の先輩も2人ほどアルバイトをしてたりするのですが*1、先輩たちは社会勉強としての名目が強いのに対して、時給の高いテレオペを選択していることからも本当に喫緊にカネが必要になっていることが伺えます。それにしたって勤め先が最悪です。「株式会社ミネラル天然ライフ」というお昼のワイドショーの合間に健康食品宣伝してそうな胡散臭い企業で詐欺の片棒を担いでいる点からも悲壮感が漂います。あの日、「花にも命がある」と無垢に語った少女は、今や無知な老人からカネを巻き上げる悪徳企業の尖兵に……あ、前回の時点でにゃむ詐欺ってたか。ともあれ、今後少女たちを人形に変えていくヴィランのスタート視点としては頼もしすぎるくらいに、もうこの時点で既に修羅道くらいには堕ちているようです。まあ、クソ親父は餓鬼道に堕ちてるみたいなのですが。

燈に寄り添って「人間に、なりたいですわ~!」と畜生道から叫んだ少女が家庭の事情に振り回されて修羅と化しているのも痛ましいですし*2、そしてその叫びの源泉となった燈との絶縁シーンもまた悲痛でした。再三言及していますが、このノートは燈にとって1人きりの居場所であり、自分を外界から守ってくれるダンゴムシの殻だったものです。しかし前回、ようやくダンゴムシの殻を完全に脱ぎ捨ててステージに立てた燈にとって、今このノートは、もう逃げ場所ではなくなっています。ならばその殻を絆創膏のように、祥子の傷にも宛てがおうとしたのですが……祥子から突き返されたのは明確な拒絶。絆創膏で祥子の傷を塞ぐことは叶いませんでした。

確かに祥子の傷は絆創膏程度では塞ぎきれないほど大きいにしても、10話で燈は人間サイズの絆創膏になってそよの傷口に絆=ミュージックを響かせたのですから、傷の大小の問題ではありません。問題は祥子の、傷の質。祥子が傷ついてきたのはクソ親父との親子の縁、そして燈を見守っていたはずが楽奈の手によって春日影の思い出を塗り替えられるという、絆そのものが刃となるもの。つまり、絆を創ると書く絆創膏は、祥子の傷口にとっては塗りたくられる塩と同種のものです。

CRYCHIC解散の日、祥子は傘も差さずにずぶ濡れになりながら練習スタジオにやってきました。前回没落が匂わされた時点では、雨傘も買えないくらい困窮しているのかとさえ思いましたが、どうやら日傘の方は差しているようで、多少懐事情を楽観視できるようにはなりました。ですが同時に、やはり絆を拒む性質の傷なのがここで露わになったように思えます。碧天伴走の曲名からも、碧天=絆創です*3。夏の暑さの中、長袖の衣服に身を包み日傘まで差す祥子の心の傷は、燈が近づけば近づくほどに身を焼くものになっているようです。何しろ、高松燈さん、よだかの星になってしまったので……。

 

剥き出しで生き続ける覚悟

13話にしてようやく、最大の爆弾こと「私ね、燈ちゃんの歌詞、前から苦手だったんだ……」が回収されました。やはりそよのセリフでしたね。ごめんよ~、途中、愛音のセリフかなとかクソ深読みしたりして(このブログのやらかしの記録はこちらにて)。ただ、そこで考察した苦手な理由が刺しすぎるというのは多少掠っていたようです。剥き出しの歌詞。ずっと「いい子の仮面」を被って家でも学校でも生きてきたそよにとっては、周囲の視線を恐れず真っ直ぐに気持ちをぶつける燈の歌詞を共に叫ぶ共犯者になるのと同義。そよに言わせれば結構ヤバいそうですが、この辺のセリフ回しも、長崎そよではなく一ノ瀬そよとしての、お嬢様らしからぬ剥き出しの言葉であり、これを言えるようになったことが彼女の大きな前進だと真っ直ぐ伝わってくるものでした。

最後に、「CRYCHICのこと、一生忘れられないよ」と、やはり剥き出しの悪意を突きつけてくるのですが、それすらも受け止める高松燈はやはり一枚上手でした。そよの帰る方向は歩道橋の右手側、元来た方向。つまり、13話かけても歩道橋ひとつ乗り越えられなかった立希同様に、結局燈の家に踏み込むことをせずにこのやり取りを終えるわけですが、立希のそれとは違っていつかそよも燈の家に上がり込んでくれることを期待させてくれるものになっていました。一生を共にするとは、家族になるのとほとんど同じ意味を持つわけですし。

そんなそよの覚悟の決まり具合はとってもユーモラスでした。燈の一生バンドし続けるという誓いに対して、「じゃあみんな、健康に気をつけないと」と、自然に寿命の話に持って行っており、まるで他の死因なんて考えていないようでもあります。高校1年生のセリフか、これが? 徹夜がちの立希や偏食の楽奈がいるので「健康」すらもそよの胃痛の種にはなりそうですが、それこそ一生をかけて追求していくテーマとしては申し分ないとも思います。

ただ、一生バンドするという誓いを成就させるのならば、自殺という手軽な手段があるのも事実です。それこそ立希からはお前のそれは逃げだよね?と糾弾されるかもしれませんが、死ぬその時までバンドをしていたのならば、嘘偽りなくその誓いを果たしていることには相違ありません。そして、バンドマンというのは古今東西自殺者が多いものですし……。

そして、今まさにBanG Dream!において、自殺しそうな奴も出てきました。貧困に喘ぎ苦しんでいる豊川祥子……そして、アルコール中毒に苦しむ豊川祥子のクソ親父です。

 

豊川さんちの暮らし向き

さて、まずは答え合わせから始めましょう。前回の記事の時点で僕が怪しんでいたのは、カフカの「変身」をモチーフにしているというものでした。演者の高尾奏音さんの身の上からも兄の登場を疑ったわけですが、そこについては完全に外れたと言えます。ただ、病気の肉親を世話しているという点では当たらずとも遠からず。本邸から離れたところで祥子だけが世話役をしている点も、グレーテ・ザムザに近しいものは感じました。おそらくこのクソ親父に、かつて祥子は「お父様のためなら、わたくし、何でも致しますわ!」くらいのことは言ってしまったのでしょう。そして、ピアノを教えてくれたのもお父様だったのではないかと思います。その種々の弱みから、こうしてアル中に“変身”してしまった父の介護を請け負わざるを得なくなっているような物語が見えてきます。

とはいえ問題は豊川家の邸宅が残存していることにあります。まあこれだけのロクデナシの父親がいるわけですから、当初は身の安全のために寝泊まりは本邸でしているのではないかと考えましたが、ピアノの練習が羽丘でしか出来ていないことからも、基本はこのボロアパートで過ごしていると見るのが必定(ピアノが差し押さえられてる可能性もありますが)。とはいえ、どういうわけか豊川の屋敷には定期的に通っているようなのです。これはどういうことなのか……と思いましたが、ボロアパートをきちんと見渡すと答えはきちんとありました。

築50年は経っていそうな古めかしさと、そしてこの間取りがそのヒントです。玄関の横の扉はおそらくトイレでしょう。そしてその反対側は簡易なキッチン。トイレの奥の押し入れには大事にしていたお人形と、祥子のものと思われる衣装ケースもあり、酒の缶や瓶を除けば、意外と整理整頓されています(酒が酷すぎて霞みますが)。さて、この部屋には、よく見ると人間が生活する上であるべきものが存在しません。ただ、特に東京の古いアパートならば、それが無くても建設当時は不自由無かっただろうものです。そう、風呂がないのです。3点ユニットバスにしてはトイレの面積が狭すぎます。

豊川家の屋敷が出てくるシーンは、まだ裕福だった頃の3話のそれを除けば、8話で飛鳥山公園にそよを迎え撃つ前と、13話でG-WAVEに行く前。つまりどこかに出発する前のシーンとして登場するのですが、特に8話では着替えが行われたと思しき転換として登場します。年頃の乙女の着替えが行われるのならば、当然に入浴していなければなりません。なので、現在の祥子と豊川家の関係はとりあえず風呂を貸してもらっているだけだと読み解けます。何ていうか、思った以上に母子関係も冷え切っています。祥子の母の事情は分かりませんが、このクソ親父とは極力関わり合いたくなさそうなのが伺えます。祥子がテレオペのバイトをせざるを得ないこと、そして羽丘の特待生制度を利用していそうなことからも、豊川家そのものの財政状況も芳しくはないのでしょう。そもそもあの家に母親がまだ住んでいるかすら疑問です。ちなみにカフカの「変身」では、元の屋敷を賃貸にして下宿人を住まわせるくらいの切り詰め方までしていました。

ただ、祥子には一つ救いがあります。同じ学校の同じ特待生制度の利用者が、銭湯を営む親戚の家に下宿しているということです。没落しても紅茶の味は忘れられないのか羽沢珈琲店に通い詰めている祥子ですが、この店の一人娘は旭湯の下宿娘の生徒会の先輩です。たっ、頼む羽沢つぐみ……!! お前が生徒会の後輩と出会わせることで、救われる常連客がいるんだ!! 少女がクソ親父と過ごす上で損なわれる最大の尊厳を救えるのは、同じ貧困の苦労を知る田舎娘なのではないかと思います。

 

同一化する人形、ひめごとを守る人間

ただ、そろそろカフカの「変身」だけで説明できることが少なくなってきたのも事実なので、ここで別の文学の話をしましょう(性懲りもない!)。「変身」の他にもう1つ、没落が疑われる祥子の身を案じる上で、目をつけていた作品がありました。それが、太宰治の「斜陽」。没落貴族となった母と子が慎ましくも過ごすこの物語は、薬物中毒の弟が突然ふらっと帰ってきたことで更なる転落を迎えます。これがモチーフだと疑うならば、クソ親父はずっと豊川家に住んでいたのに追い出されたというよりは、何かの拍子に豊川家に帰ってきた末に拒絶されたのではないかと考えられます。

そして、そのきっかけとして疑えるのは、CRYCHICの初ライブ。そよが開設したSNSによってバズり拡散することとなったこのライブは、やがて借金苦の父にまで届く副作用をもたらした……。そう、祥子が幼き日に「何でもする」と口走ってしまったあのクソ親父にです。現状思い浮かんでいるのはこういうストーリーです。それを裏付ける証拠も存在します。

このスクショだけは流石にトリミングしました

7話に行った碧天伴走と春日影の最初のライブ、そして燈がコツコツ話題性を積み上げてきて詩超絆で爆発させた10話のライブ、更には12話のMyGO!!!!!結成ライブと、MyGO!!!!!はこれまで3度もの大きなライブを経験してきました。その末に愛音が開設したSNSのフォロワー数は、現状26。まあ、駆け出しのバンドなのでこの数字は決して卑下するものではないですし、今後の活動で上積みしていけばいいものなのですが、問題はCRYCHICアカウントの現在のフォロワー数です。

おそらくはあの春日影以外にはライブなどしなかった、たった一度ライブしたきりで1年放置されたアカウントにもかかわらず、そのフォロワー数は35。MyGO!!!!!のそれを悠に超えています。MyGO!!!!!がRiNGという現状における地域最大規模のライブハウスを複数回使えていることからも、この数字の差は素直に驚嘆すべきものです。というか、1年前の全盛期にはもっとフォロワーがいたと考えるべきでしょう。それこそ、三角初華だってCRYCHICのアカウントから高松燈の存在を知っていました。

つまりは、CRYCHICは当時局所的にはかなり話題になったと考えるべきです。それこそ、その1回でMyGO!!!!!のライブ3回分を超えるほどのインパクトを持って。12話の感想では芥川龍之介の「河童」からも、そよが何かしら大きな罪を背負っていると考察しましたが、こうした事情があるならばそうした道理も通ります。祥子とクソ親父を巡り合わせてしまったのは、そよが開設したSNSアカウントだった。つまりは、CRYCHIC解散の遠因を作ってしまったのはそよだった。こういう筋書きが描けてしまうのです。

なお、「斜陽」で戦場から帰還した薬物中毒の弟・直治は、最終的に自殺します。この際の遺書が、Ave Mujica的には極めて示唆的なのです。

 人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
 なぜ、同じだと言うのか。れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐

没落貴族ゆえに平民から嘲笑されてきた直治を苦しめた、この「人間は、みな、同じものだ」という言葉はみんなで仮面を被って人形になるAve Mujicaのコンセプトと合致します。そう、Ave Mujicaは、言わば同一性のバンドです。“関係者”それぞれが仮面を被った人形であることを認めさえすれば、その参加資格が得られる――実を言うとPoppin'Partyに極めて近い性質のバンドなのです*4。この点、みんなバラバラでも迷子になりながら進もうという同質性のMyGO!!!!!とは、似ているようで全く非なる方向性にあると言えます。

「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」

そしてもう一つ、この作品とAve Mujicaを関連付けたい要素があり、それが「人間とは」というテーマです。人間を他の畜生と区別して人間たらしめるもの。それは、ひめごと。作中では、主人公・かず子が作家の上原に抱いていた恋愛感情を殊更に特別視したものとして描かれるのですが、Ave Mujicaの仮面はひめごとを守るものとしても機能します。有名人である三角初華や若葉睦の正体を隠すものとして(まあバレバレなんだけど)、或いは、豊川祥子の没落を隠すものとして……。人形としての同一性を守りつつ、演者の5人はその仮面で人間性を守ろうとしているような態度も伺えます。

それこそギターの若葉睦が別コンテンツで人間として合格させてくれるからこそ関連を疑うわけですが、太宰治がこの後に遺作として著した「人間失格」は、己の人生の秘密を全て曝け出した壮絶な私小説です。秘密を衆目に晒したことで、人間として失格した。そして偉大な文豪は、その執筆後に入水自殺してこの世を去りました。

そして「人間失格」と言えば、恥の多い生涯を送ってきましたという有名な書き出しで始まります。恥と言えば、MyGO!!!!!の方は恥を受け入れる形で今に至っています。「恥ならもう掻いたし」と開き直れたそよが、今回剥き出しのまま一生バンドすることを受け入れたのがその最たるものでしょう。恥部を剥き出しにし続けるMyGO!!!!! VS 恥部を隠し続けるAve Mujica。ここでも面白い対立構図が打ち立てられているなと思います。果たして、人間として合格するのはどちらなのでしょうか。

 

イドを隠した星の王子さま ~三角初華~

いーかげん関連してるかも分からねぇ文学の話持ち出してくんの大概にしろよ!!と思われてるかもしれませんが、だってしょーがねーじゃんかよ、メンバーにLyrical Lilyがいるんだからよ

というわけで、続編が開始するまではAve Mujicaについて語る機会があるか分かりませんので、この記事でもう僕が疑っている文学モチーフは全部吐き出したいと思います。なお、若葉睦については前回の記事にて芥川龍之介の「河童」との関連を記述しましたので本記事では割愛します。まず、ボーカルの三角初華のモチーフと睨んでいるのはサン=テグジュペリの「星の王子さまです。星が大好きかつ、ナチュラルに王子様的な振る舞いをしている三角初華には似合いのモチーフだと思います。

さて、Ave Mujica(ようこそ音楽へ)がラテン語から由来しているのは周知の事実かと思いますが、本来の音楽の綴りはMusica。そこに同じ穴のMujinaを合体して造語とした結果、sが欠落したわけです。これだけならまあ気にすることは無かったのですが、Ave Mujicaの楽曲にはChoir 'S' Choirというものもあり、アルファベットのSには何やら大きな意味があるようです。

なお、choirは英語では「合唱団」を意味する名詞なのですが(chorusと通ずる語だと思えば分かりやすいです)、これがフランス語になると「失墜する」という意味の自動詞になります。自動詞なので目的語を取れないとすると、Choir 'S' Choirは合唱団「エス」、失墜するくらいの意味になります。では合唱団の名前と思しき「エス」とは何なのかという話になるのですが、ここで心理学の話をしましょう

我々の深層心理には無意識が存在し、その中では本能に忠実なエス(イド)、社会に適応しようとする超自我(スーパーエゴ)、そして超自我エスの間で板挟みの自我(エゴ)でバランスを取っており、この内人間がそれを意識できるのは超自我と自我の一部に限られるとフロイトは提唱しました。まあ難しい話になりますし、細かい理解は置いておいて良いので、とりあえずエス=本能が人間の意識からは秘匿されたものだということを押さえておけばいいと思います。そして、このエスラテン語名こそがイドなのです。そしてまた、星の王子さま」こそはイドを隠した物語です。

サハラ砂漠に不時着した戦闘機パイロットの「ぼく」が小さな星の王子さまと出会うこの小説は、砂漠の中で井戸を探しながら王子さまの話に耳を傾けることで展開していきます。そして王子さまの深遠な話に共感していき、やがて自分の命を奪うかもしれないこの砂漠をも美しいと感じるようになります。そして王子さまは、砂漠が美しい理由を、こう語ります。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」と。

星が大好きな王子さま、三角初華が社会に向けているスーパーエゴは、アイドルsumimiとして空虚な希望を歌うものでした。それがようやく仮面を付けて、顔を隠すことで、本来のDiggy-MO'的な攻撃性(=イド)あるリリックを解き放てるに至っています。本当に大切なものは、目に見えない。三角初華のイドは、Ave Mujicaで仮面を被ることによって、ようやく発散できるものになりました。

なお、星の王子さまがやって来たのはとある小惑星からでした。恒星ではないため、日傘を差す祥子にも優しい出自。それでいて、その小惑星には、王子さまがずっと大切にして心を通わせた薔薇が咲いています。豊川家の元ネタである旧白河庭園が薔薇の名所として有名であることからも、初華の胸にずっと咲き続ける薔薇は、言わずもがな祥子そのものかと思われます。

 

悪役を演じる善人 ~八幡海鈴~

30ものバンドを渡り歩いてサポートに徹しているらしき八幡海鈴でしたが、今回あっさりとAve Mujicaの本メンバーとして加入していました。立希に対して「自分のバンドのことで悩めるのが羨ましい」とか言ってたくらいには居場所を求めていた風でしたし、じゃあ何で今までサポートしかしてこなかったんだ?と疑問が浮かぶところですが、この点については同じような経緯の人物が作中にいたのである程度説明がつきます。同様に、風来坊のようにバンドを転々と渡り歩いてきた要楽奈です。

「一生」に強めの拘りを持つ楽奈曰く、それまでバンドを組んできた女はつまんねー女ばかりだったとのこと。まあ、おそらく、サポートに入った際に「このバンド、いつまで続けるの?」くらいの質問はしてきたでしょう。その末に、「まあ、高校卒業するまでかな~」とか「とりあえずやる気ある内はやるつもりだよ~」とかのつまんねー答えを聞かされ続けてきたのでしょう。楽奈が聞きたかったのは、「死ぬまでやる」くらいの本気度を持った答え。そしてこれがおそらく、八幡海鈴にとっても同じでした。30もサポートバンドをこなしてきた八幡海鈴が、Ave Mujicaにだけは特別恭順した理由が他に思い浮かびません。一生続けられるバンドを求めていた八幡海鈴にとって、豊川祥子は何より甘美な言葉をくれる人物でした。「残りの人生、私に下さらない?」、八幡海鈴が要楽奈の同類だったとするならば、これ以上ない満点の回答です。

そんな海鈴がティモリスとして語る口上は、「我、恐れることを恐れるなかれ」。まるで「迷うことに迷わない」かのようなオクシモロンになっています。他が忘却や死への恐怖を克服しようとしている一方、ティモリスだけが恐怖を受容することを求められており、Ave Mujicaの中でも特異な立ち位置にあると言えるのですが、ここで文学の話をしましょう(あーハイハイ)。

高校国語の教科書にも採用されている中島敦の「山月記では、主人公の李徴が臆病な自尊心と尊大な羞恥心から発狂して虎に変身します。そして、物語のラストは身勝手にも残してきた妻子の安全を友人に託し、月に萌える吠えることで幕を引きます。また、虎穴に入らずんば虎子を得ずという故事成語もありますし、「虎」は月にも穴にも関連が深い動物です。あと、仲良しの一匹狼・立希と組めば前門の虎、後門の狼なんかも結成できちゃうのが美味しいところですね。ネコ科なので楽奈と同類という点でも納得のモチーフです。ところで何の因果か分かりませんが、このIt's MyGO!!!!!最終話が放映されたその日に阪神タイガースが優勝してました。おめでとうございます。

しかしながら、高松燈に「応援しています」と温かなエールを送っためっちゃいい人・八幡海鈴と、妻子も顧みない傲慢さが邪魔をして人間を失格した李徴とでは似ても似つかないように思えますが、それは八幡海鈴がまだ変身前だからです。おそらく虎に身を落とした李徴は、八幡海鈴が目指すべき未来の姿。今現在人間が出来すぎている海鈴が恐怖心を受け入れることで、善なる心を持った動物性のあるヒールとして完成していくのではないかと思います。タイガーマスクのように

 

女王・アリス ~祐天寺にゃむ~

前回祥子に詐欺同然で加入させられた祐天寺にゃむ。正直「あーあ、可哀想に」くらいに思っていたら、何か人形劇では一番ノリノリに演技して初華に合法セクハラまでかましていました。やっぱりバンドリはいいですよね。合法的に色んな女を抱ける

顔も隠され、配信禁止で数字も伸ばせないのに、特に意に介することなくAve Mujicaにどっぷり染まっており、現状こいつが一番この仮面バンドライフをエンジョイしていそうでした。ヤニ吸ってそうな悪い大人が出てきたかと思えば、その振る舞いはまるで無邪気な子供そのもの。他の4人が落ち着いているだけに余計にそう感じるところです。とはいえ初華からは「にゃむちゃん」呼びですし、年齢差があってもフランクに接してくれるのも大人の懐の深さを感じさせてくれる……と言いたいところですが、今回その前提が揺らいできました。

ライブ直前の舞台袖にて、「大人に任せちゃえばいいのに」とのセリフが飛び出し、少なくともにゃむ本人の自認は子供であることが判明。前回あんなに男児の性を目覚めさせがちな戦隊モノの女幹部みたいな態度を取っていたのに、急に子供と大人の間を反復横跳びし始めました。にゃむちさあ……初華と祥子はもう大人の階段登ったんだよ?(そういうことじゃねーよ)

要楽奈も年齢学歴共に不詳でしたが、祐天寺にゃむはそれ以上の予測の幅があり、全く余談を許しません。大学生から、はたまた中学生まで想定に入れるべきです。えっ、中学生にしてはスタイルが良すぎる? 中1の長崎そよがあんだけたわわだったんだし今更でしょ。そして年齢以上に考慮したくなるのは、にゃむが高校を中退している可能性。前回の祥子との会話からも現状を打破したい境遇にあるのが伺えましたし、儲かっていそうとはいえ生業がYoutuberであることからも、いわゆる真っ当な人生からは外れたところにいます。

あ、ところでガルパの方のエピソード読む限り、立希の姉と知り合いの可能性もほぼ消えましたね。立希姉ほんとに何だったんだよ!! 存在が詐欺みたいなもんだったので、続編では超高校級の詐欺師みたいにAve Mujicaの最初の犠牲者になってほしい

とはいえ、にゃむのキャラクター性を思うと本質は実年齢などではなく、セルフブランディングと本来の自己のアンビバレンツにあると思います。にゃむちとして配信を通じて世界に曝け出す見せたい自分は、上手なメイクを教えてくれる憧れの大人のお姉さんとしての姿。そして、カメラの外で、或いはAve Mujicaの仮面を被って見せるのは、周囲の人間をおちょっくて楽しむ悪戯な子供としての姿。大人っぽく見られることを望みながら、子供としての本性を見事に両立したキャラクターです*5

こちらの記事のTheme 8としてピックアップしましたが、バンドリではアニメかガルパかを問わず、他者からのイメージと本来の自己の違いに苦しんできたキャラクターが何人も登場しました。そして、その結末の多くは本人が納得できる形で他者からのイメージと本来の自己を合一させてきたものです。例外と言えるレイヤとパレオも、どちらかの自己をどこかに押しとどめることで、自分自身の生き方を肯定してきました。

ですが、祐天寺にゃむは違います。相反する自己を分離させたまま、ほぼ同等程度に両立しているのです。他者からのイメージと本来の自己の分離、仮面を被るからにはまあやるだろうと思っていましたが、最初にその実例を見せてきた祐天寺にゃむがこの完成度なので舌を巻きます。ていうか、一番出番少なかった奴が一番最初に実例をスパーン!と提示してくるのが流石に攻めすぎです。

さて、ここまで考えると、祐天寺にゃむの持つテーマは「大人と子供を両立し続けること」なのが伺えてきます。しかし、大人には嫌でもなっていくものとして、子供で居続けるのは難しいのではないかと思ってしまいます。それこそ、対立する青いバンドが一生迷子でいることを誓っているように、子供らしくずっと迷って走り続けるしかないように感じられますが、多分それが正解です

ここで生物学の話をしましょう。地球の長い歴史の中、あえなく絶滅した種も数多く存在しました。そこで絶滅した種と絶滅しなかった種を調べた結果、その命運を分けたものは何かと問うた結果、絶えず進化し続けた種こそが繁栄を続けているという説です。「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」――赤の女王仮説という名前は、鏡の国のアリスに登場する赤の女王のセリフに由来します。アリスシリーズと言えば、作者のルイス・キャロルからも大人にならないことを願われた、永遠の少女の物語です。少女であり続けるためには、走り続けなければならない!

鏡の国のアリス」と言えば、アリスシリーズ二部作の不思議じゃない方。ボーカルに不思議ちゃんを擁するMyGO!!!!!と対立するバンドとしても似合いのモチーフです。そして、ウサギが登場しない方でもあります*6。当初、月ならばウサギだろうと、僕は安直に「不思議の国のアリス」の方との関連を疑っていたのですが(何しろウサギの「穴」に落ちて物語が始まるので)、せいぜい時計ウサギと歯車を関連付けられたくらいでそれ以上にAve Mujicaとの関連はDigり当てられませんでした。それもそのはず、月のウサギは、表側にしかいないのです。裏側に住まうAve Mujicaとは関連しようはずもありませんでした。そしてその裏側こそが、鏡を通り抜けた先を旅するあべこべの世界。真理は鏡の中にこそありました。

もういっそ分かりやすすぎるくらいに、Ave MujicaのMVにはチェスの駒が登場するのですが、「鏡の国のアリス」でアリスは白のポーンの駒となってチェス盤の世界を旅します。前回、祥子にとって使い勝手のいい駒になっていたにゃむとの関連を疑わずにはいられません。さて、この赤いバンドの女王は豊川祥子。そして赤の女王からポーンを任されたアリスに当たるのは祐天寺にゃむです。赤の女王は最終的に、アリスにクイーンに変身することを要求します。チェスにおいて最弱のポーンが最強のクイーンに成り代わるこのルールはプロモーションと言い、Ave Mujicaのプロモーターが祥子であることからも、アリスたるにゃむを女王にするのは他ならぬ祥子です。

Mas?uerade Rhapsody Re?uestの曲名は、分かりやすくQ=?になっています。この歌詞自体も祥子の駒であることを受け入れたにゃむの心情を歌ったものと疑いたくなるのですが、それと同時に、Qから始まるある単語を示唆したものではないかと思ってしまいます。英文においてはアルファベットの26文字中、最も登場頻度の低いQの文字。そこから我々日本人が何を連想するのか。まず第一にはQuestionでしょう。ただ、それはRe?uestにも含意されていることから、この楽曲の包括する範囲から逃れたことにはなりません。では第二には? おそらく、Queenのはずです。つまり、この楽曲の本当に意味するところは?ueen Aliceなのではないかと思います。滑り込む、夢、夢。なお、「不思議の国のアリス」も「鏡の国のアリス」も物語は夢オチで終わります。特に鏡の方は、アリス自身の夢だったのか、赤のキングの夢だったのか、胡蝶の夢に類似した問いかけまでされる形で。

祥子にダル絡みしながら、何で私に「愛」って名前の意味をつけたの~?とねちっこく問いかける祐天寺にゃむ。結局その答えが祥子の口から語られることはなく、It's MyGO!!!!!の物語は一旦終わりを迎えました。前回の記事ではアモーリスの由来を愛音とかいうウザい奴由来の当てつけという説も考えたのですが、今となっては祐天寺にゃむにハートの女王の役割を期待したからとも受け取れるようになってきました。忘却、死、悲しみ、恐怖といった単語が並ぶ中で一つだけポジティブな意味合いで浮いている「愛」。ですが、「そやつの首を刎ねよ!」という過激な言葉を繰り返す女王になることを期待するならば、アモーリスの口上の真意はこうなります。

「我、処刑を恐れるなかれ!」

まあ、作中でハートの女王が処刑を執行できたことは、一度として無かったのですが。

 

 

 

くぅ~、疲れましたw これにて全話の記事執筆完了です!(10話は代替品ですが)

元はと言えばイーロンがTwitterを壊したせいで書き始めたのですが、やっぱり長文を書こうとすると理解が深まるもので、時に深読みに失敗しつつも(愛音の留年とか無かったね……)、毎週毎週この傑作アニメをより楽しめる視聴体験ができました。やって良かったと思います。

さて、僕以外にもブログで感想を上げる人が多く出現していた結果、ブシロードもフットワーク軽く、感想文コンテストなる企画を立ち上げてきました。うおっ、面白そ~! とはいえ各話の感想ははてなブログの方で一元化しておきたかったため、noteでの参加は別の記事を設けようかと思います。こんなスクショ無断使用しまくってる記事で参戦するわけにもいきませんしね。ちなみに参加する記事の内容はもう決まってます。豊川祥子と若葉睦の双子説です。えっ???

あ、書けました。中国のオタクと合作した記事です。よろしければどうぞ。

 

It's MyGO!!!!! 13話と言いながらAve Mujica第0話みたいな内容でしたが、大方の予想通りAve Mujica編も告知されました。インタビューではキャストからミステリーだのサイコホラーだの本当にバンドアニメなのかと疑わしくなる単語が飛び交っており、大変楽しみにしています。またこの長文ブログを稼働させるとは思いますので、とりあえず放映までに、予習としていくつかミステリー小説読んだりホラー映画観たりしておこうかなと考えています。キャストに竹下みいこがいるので

そういえば、続編で純田まなどうなるんだろうなあ……。

あ、終わります。

*1:広町七深がファミレスで、二葉つくしが羽沢珈琲店で。

*2:一応言っておきますが修羅道の方が畜生道より上位です。

*3:キズナミュージックは絆=ミュージックですし、キラキラだとか夢だとか ~Sing Girls~はキラキラだとか夢だとか=Sing Girlsでした。実はこの辺りバンドリの伝統です。

*4:自身もポピパの一員と認めれば、ポピパはそのCiRCLINGの輪に誰でも組み込んでくれました。

*5:後述するインタビューでは、元々峰不二子みたいなキャラクターを予定していたそうです。

*6:一応「ヘイヤ」として前作の三月ウサギがカメオ出演するのですが、それ以外にウサギは一切絡んできません。