矛盾ケヴァット

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鬼になれない女と人間になれない女 ~BanG Dream! It's MyGO!!!!! 8話感想~

孝行娘の親殺し ~若葉睦と長崎そよ~

前回で爆発して遂になりふり構わなくなってきたそよママ。4話では「誰も、悪くないんだよ……」としっとり語っていたはずのママでしたが、今回に至って「睦ちゃんのせいだよ、あの時も、今も」と急に睦に全ての責任を押し付け始めました。全てを優しく包み込むようなその愛情も、追い詰められて余裕を失うと我が子を自分のために利用するだけの毒牙に変わっていく……。

それにしても、そよの暴走に前回まで素っ気なく対応していたかに思えた睦が、ここに来てそよに一種の罪悪感や甲斐性のような感情を向けていることに驚きました。しかしながら、これを機に見返してみると、2話では祥子に対して「そよが心配してる」とそよに寄り添った発言をしていますし、6話では祥子をライブに誘うというそよの思惑に従った行動を取っていることも確認できました。あまりにもさり気なさすぎてスルーしがちではあるものの、よく出来た孝行娘としての行動を一貫して取っています。ずっと祥子への感情が激重なのかと思っていましたが、実のところそよを誰より労っていたという新たな若葉睦の行動理念が見えてきました。まあ、若葉睦さん。両親共に芸能活動で忙しそうだから、両親とのコミュニケーションは希薄そうだしね……。それでいてバレエやピアノと習い事で雁字搦めなので、確かにこの辺り、家では常に孤独なそよとのシンパシーを感じて然るべき共通点ではありました。そして、だからこそ楽奈や初華のような自由人に憧れるようになったのかもしれません。

そうは言っても「私はバンド、楽しいって思ったこと、一度もない」と言い放ってCRYCHIC解散の決定打を放ったのは若葉睦でした。今現在もやはりバンドを続ける意志がないことをそよに打ち明け――いや、そよお前そこ察せてなかったんかい――結局CRYCHICの再演がママの独りよがりであったと突きつけることになります。いやいや、察せてなかったどころか睦はきっぱりと1年前に意思表示していたわけなのですが、何でなのか、そよはと言えば「楽しかったあの頃の私たち」と自分の楽しさがCRYCHICの全員にも共有されていたものと、娘の発言も無視して勝手に思い込んでいました。冒頭でも立希に対して「(春日影)やらないって言ったじゃない!」と一度もされたことない発言を脳内で捏造していましたし、このママ、自分が正しいと思えば事実すらも捻じ曲げて解釈してしまうきらいがあります。恐ろしくもありますが、それでいてこのイカレっぷりは、インターネットの炎上騒動では時折見かけるリアルな光景でもあります。ちょくちょく先走った解釈をしては外しまくってるこのブログも戒めなければならないなと襟を正すところ。ああいや、外してると分かったら一応常々軌道修正はしているつもりなのですが*1

祥子が2話で発言した「伝書鳩になってはいけませんわ」が、そよママを想う余り自意識を殺した親のメッセンジャーにはなるなという意図であったことも今回でくっきりと輪郭を帯びてきました。月ノ森でのそよの発言は特にゾッとします。「睦ちゃん、本当に思ったことそのまま言うよね。やってほしくないことばっかり。お願いしたことはやってくれないのに」……人間であるはずの睦を使えない道具扱いしているかのような糾弾であり、まだ生物扱いされているだけ伝書鳩の喩えの方がいくらかマシに思えます。睦のそよママからの扱いは、己の意のままに動いてくれる操り人形のよう。そよにとってそれは睦だけではなく、おそらくは祥子も愛音も、或いは燈や立希ですらそうであったかもしれません。けれども結局、その意図を愛する我が子たちは誰も汲み取ってくれることはなく、そのは祥子からの鋭利な言葉の刃によって完全に断ち切られました。

ラストシーンでそよを見つめる睦の表情はやはり感情が読み取りづらく、その真意が何であるかは定かでないのですが、個人的には睦はこうなることを望んでいてようやく成就したように思いました。睦がAve Mujicaになった暁に背負う屋号はモーティス。他の誰よりも重い「死」を意味するラテン語です。我、死を恐るるなかれ。その決意を胸に演奏することになる彼女は、そよに利用されながらにして母殺しを達成してみせました。未練がましくCRYCHICに縋り付く生き恥晒した醜い果実、その亡霊を解き放つかのように。

CRYCHICが蘇らぬのなら――鳴くまで待とうとしたのが長崎そよ。殺してしまえと決断したのが若葉睦。そして、鳴らしてみせようとしたのが要楽奈ではないかと思います。春日影を鳴らしてみた楽奈と、そよ自身の一時的な死からの再生産を願った睦。2人のギタリストからその野望をBAN Dream!されて、ここに一度長崎そよという怨念は一度死に絶えることに……いや死んだかなあ?

 

泣いた赤鬼と去れない青鬼 ~豊川祥子と長崎そよ~

そもそも何故長崎そよがここまでCRYCHICに執着するようになったのかと言えば、おそらくは壊れた実家以外の家庭を求めたからです。1~3話の記事でも考察したように、中学時代から月ノ森に入ったそよの境遇を思えば親の再婚があったことが有力。まあそれでも再婚した家庭が円満であれば問題なかったのですが、現状そよが家にいる時には孤独に自室でスマホを眺める以外は描かれておらず、夫婦仲は良好かもしれませんがそよに構えていない様子が伺えます。ただ、祥子や睦のようなナチュラルボーンお嬢様と決定的に異なるのは、その束縛の強さ。平気で夜の街を出歩けるほどに放任されているそよとは対照的に、祥子は18時に門限と思しきアラームが鳴り、睦は先述のように習い事によって自由を奪われています。

なお、今回で明らかになったことですが、祥子の門限の時刻には外はこの明るさなので、前回の祥子は家の門限を破ってまで来てくれたのに春日影の再生産を突きつけられたという慈悲の欠片もない立場にあったことになります*2。ところで、「もう行っちゃうの……?(クゥ~ン)」とでも言いたげな初華さんのこの表情、大変小動物じみていてキャワイイですね。祥子さんこういう女に弱すぎない?

兎にも角にも、温かな家庭に飢えていた長崎そよに、豊川祥子は言い放ってしまいました。バンドは運命共同体だと。ここが貴女の、私たちの、生きるべき絶対的なホームだと断言してしまったのです。確かにおためごかし、CRYCHICのみんなのためと言いながら、CRYCHICによって守られていた自分を守ることがそよの行動理念の全てでした。けれども、長崎そよにCRYCHICというダンゴムシの殻を与えたのは紛れもなく祥子なのです。「何でもするから!」と縋り付くそよに向けて、祥子からは他人の生殺与奪の権を握れるのか(意訳)と痛烈なカウンターが返ってきますが、そよからすれば唯一の居場所であるCRYCHICという生殺与奪の権を祥子に握らせていたも同然でした。結局、そよが追いかけ続けたごっこは、祥子の言葉の刃によってそよが切り刻まれることで、その運命共同体の再演を望んだ鬼が滅ぼされることで金輪際の終わりを迎えます。

ところで、MyGO!!!!!に冠されるGOという単語には、去るという意味合いも強く含まれます*3。であるならば、MyGO!!!!!というバンド名およびタイトルは必然的に「去ることを受け入れる」という意味になってくるものに思われます。今回、そよの元から去ったのは、前回泣いた、後の赤いバンドの首魁でした。しかし、この赤鬼からすれば、春日影を奏でて自分の元から独善的に去っていったのは後の青いバンドの方であり、同時に今のそよは青鬼のくせに去らずに追いかけてくる矛盾した存在です。今回でごっこは完全に終焉しましたが、祥子が望んだのはそよが“ごっこ”ではなく本当の鬼になることではないかと思います。童話の青鬼のようにきちんと去ることさえできれば、そよ自身の幸福も訪れる……。「鳥」のメタファーを数多く宿す祥子から、そよを青い鳥にしようという一種の温情が、今回の冷徹すぎる態度になって現れたように思えるのです。いやまあ、LINEブロックしてたので普通にウザがってたんだとは思いますけど……。

そしてこのママもこのママで、自室で4匹の蝶を飛び立たないように標本にしているというおぞましい姿まで見せているのですが。その蝶をとっととHave Goneさせんかい!!

 

望んだ運命、望まない奇跡

ちなみに、生殺与奪の問答の際に睦の顔が曇るカメラワークも行われたことから、祥子の行動はそよのみならず睦の人生にも何かしら影を落としていそうです。というか燈や立希をも引き連れて地獄へと道連れしていったのもこの人なので、ああ、そりゃあ、今後数多の生きづらさを抱えた少女を人形に変えていく集団のボスになり得る器だよなあ……と思わず納得させられる巻き込み性能を誇っています。今回、幼少期に抱えていた真っ赤な第5ドールや、待受のドール趣味からもその萌芽も見受けられました。今後、一体どれだけの少女がこの無自覚な光の悪魔の禁じられた遊びに狂わされていくのか……。

ところで、そよと祥子が絶縁するに至ったこのロケーションには大変見覚えがあります。後ろに見える電車がもはやお馴染みと言っていいでしょう。この飛鳥山公園は、花園たえと和奏レイがナカナ イナ カナイを共に奏でて再会を誓った地。その地で今回、今生の別れが実演されました。誰一人涙を流すこともなくナケナ イナ ケナイまま、ただ噴水の音がどしゃぶりの思い出のリフレインを奏でながら。

アニメ2期と言えば、幼馴染みの和奏レイとバンド仲間の戸山香澄との間で揺れ動いた花園たえが、最後にReturnsという楽曲を作り上げ、昨日までの日々にサヨナラすることでレイヤと決別し、ポピパに戻っていく筋になっていました。運命と奇跡が混ざり合ってた。花園たえにとっての運命とは、幼き日に再会を誓い合った和奏レイであり、そして奇跡とは、数奇な出会いと偶然の連続によって結成されたPoppin'Partyでした。

その2期を擦る……というよりは上塗りするかのように、It's MyGO!!!!!は運命と奇跡の衝突を描いてきます。長崎そよにとっての運命は、言わずもがな共同体として生きることを誓ったCRYCHIC。一方の奇跡は、「奇跡的にいいメンバーと巡り会えるかもしれないし」と信じた愛音が先導してその物語を転がし、全員のイニシャルを繋げるとSTARTになる偶然*4が実現するメンバーにより結成される後のMyGO!!!!!です。かつてのバンドリでは混ざりあった運命と奇跡は、もはや混ざり合わずに衝突する関係になっています。そして、長崎そよにとっては楽奈の独断専行から奏でられた望まない奇跡の春日影により、いずれCRYCHICの5人で演奏するはずだった運命の春日影は粉々に打ち砕かれたものになってしまいました。……長崎そよさん、昨日までの日々にサヨナラできるのかなあ……?

 

にんげんになりたくない猫 ~要楽奈~

今回を機に4話も観返しましたが、楽奈についてはひとつ大きな発見がありました。よく見るとこのおもしれー猫、燈の言う「一生」に強めの反応を示しています。まあ確かに楽奈の出自を思えば妥当と言えるもの。今回、真次凛々子さんから「前のライブハウスでも神出鬼没だった」と、もう楽奈もSPACE関係者としか言いようがない発言も漏れ出しました。楽奈のお婆ちゃんの筆頭候補は、このガールズバンド時代の礎を築いた、その一生をガールズバンドの隆盛に身を捧げた人。その偉大なる先人の背中をおもしれーと感じて育ってきたのならば、一生バンドしたがる女から祖母に通ずる面白さを感じるのも極めて自然です。そして、その面白さがそよへの未練から曇ってしまったらつまんねー女の子になってしまうのもまた道理でした。

祥子の「何でもするとは、他人の人生を背負うもの」という発言は分かりやすすぎるほどに燈の「一生バンドしてくれる?」のシノニムになっています。そして、そよママにその覚悟がないことと、バンドという共同体を自分を守る殻にしていることが祥子から突きつけられたことは前述の通りですが、似たようなつまんなさを楽奈の母からも感じることができます。同じ作品に放任されっぱなしの睦やそよや立希がいるため、オカンがご飯を作ってくれるだけでも関係が良好に見えるのですが、まずこのシーンでは常に家にいそうな母ではなく凛々子にメッセージアプリの使い方を質問していることに引っかかりを覚えます。まあ600件既読がつかずにスルーされているのを全く気にしてなさそうなことからも楽奈の母も機械オンチなのだろうと、ここまでは呑気に構えていられるのですが、そのアイコンが「母」の一字であることに気付くと居た堪れない人間性が垣間見えてきます。この人、母であることを、共同体の一部であることをアイデンティティにしている……。個人として己の足では立てず、CRYCHICという家族に依存していた長崎そよと同種の人間なのが読み取れます。子供がいなくなればそのアイデンティティは崩壊してしまうものなので……。

作中では楽奈が度々パフェを食い逃げしている姿がコミカルに描かれるのですが(今回は2杯食ったぞコイツ!)、よくよく考えると家に帰れば温かいご飯が待っている家庭の人間としては奇怪な行動です。ただまあ、楽奈の姓が都築でないことからも、おそらく楽奈の母は都築詩船の娘。あの偉大なバンドマンの血を継いだはずの女です。そんなもっとおもしれー女になり得たはずの母が、個であることを捨てて家族という小集団の母であることにアイデンティティを感じているのは、楽奈からするとそりゃあつまんねーのでしょう。他の放任家庭の娘からすればにんげんっていいなと感じる家庭で育ちながら野良猫の如く振る舞う楽奈にとって、人間になりたくてもなれない燈は、やはりおもしれー女としての要件を満たしていたと言えます。転がり続けながらGoneしていくダンゴムシは確かにでんでんでんぐり返ってバイバイバイ、にんげんを羨むからこそおもしれーにんげん性が滲み出す女です。

 

橋の向こうの関係者

初華に全てを忘れさせてもらうために祥子が向かった先は、ホテルではなくプラネタリウムでした。「ドロドロぐちゃぐちゃのリアルな人間の感情を描く」と新たに銘打ってきたこの作品でも流石にドロドロぐちゃぐちゃのリアルな肉体関係は描かないよなあと半分安堵したのですが、そこから語られる2人の過去はそれ以上の関係にあることを詳らかにしてきます。田舎の島の、どこまでも広がるような満天の星空の下……この2人の少女は幼いながらにしてお互いの星の鼓動を感じ合っています。別荘持ちのお嬢様と、島育ちの田舎娘。けれどもそんな違いなど、この星空の下では些細なものでしかありません。世界が自分と一体化する、相手と自分が一体化する、そんな究極の同一性を帯びた、バンドリというコンテンツに限って言えば最上級の関係です。一年ぶりに再会したという織姫と彦星のような関係は、まさにそよの鬼LINEが通知されずに実現した2人だけの世界とでも言うべき濃密さ。前回祥子がビジョンに憎悪の視線を向けていたり、祥子が初華の仕事上の悩みを打ち明けられる相手にはなれていなかったりとの引っかかりは覚えるものの、幼馴染みが強い伝統のあるバンドリらしい湿度を誇っていました。

2人が思い出話に花を咲かせたのは、プラネタリウムよりも空に近づける、それでいて汚泥から美しく芽吹く蓮が咲き誇る屋上庭園。一度は泥に塗れた祥子の再起としても、幼い頃泥に塗れて遊んだ2人の美しい思い出を語るにもうってつけの、橋の上で。3話の架道橋で祥子が燈にそうしてもらったように、今度は自分が初華の方へ、向こう岸に渡ることで、燈との決別と初華の関係者になることを決心します。橋などなくても離島という“向こう岸”で心を1つに通わせ合った2人ですが、改めて橋が2人を繋いだことにより、2人の関係はより確かなものになりました。

ところで、この作品において再三登場する橋と言えば歩道橋。今回も燈の自宅近くの歩道橋を愛音が登ろうとしたところ、燈は愛音を静止して自宅に招きました。何度も歩道橋を渡れなかった立希とは違い、もう愛音は橋を渡る必要もないくらいに燈のいる向こう岸にまで到達できているようです。こう、何というか、立希が燈から関係者扱いされていないのがまろび出てきて、いっそとろけるミルクゼリーを奢ってあげたくなるくらいには可哀想なのですが、ここはある種自業自得な面もあります。冒頭、怒り心頭のそよに向かって、立希は言い放ってしまいました。「あいつが泣いたから何? 関係ないでしょ」と。まあ確かにマジで関係はないのですが、ポロッと溢れた本音にせよ、関係者かどうかが絶大な意味を持つこの作品においては「関係ない」はあまりにも重すぎる発言です。

今回、燈と愛音は一緒に1-Bの教室を訪れることで、そして月ノ森女子学園の関係者以外立入禁止を突破することで、祥子やそよの関係者になりに行こうとしました。そよが復帰しようがどうでもいいと、そよの存在をミュートするが如き振る舞いの立希とはあまりに対照的です。立希さん、燈が何を語ってくれるのかには興味津々でも、燈が何を見ているのかにはあまりに無頓着すぎます。そして燈の見る景色に寄り添えているのはやはり愛音で、ここがこの2人が燈に懐かれるか否かの決定的な違いになっています。そういえば祥子と初華の2人は、同じ星空を見上げてひとつになったのでした。燈の唇に夢中で燈の瞳には盲目になっている立希は、今現在星の鼓動からは最も遠いところにいます。

一方、関係者性で言えば目覚ましく覚醒を遂げているのは千早愛音。そよを連れ戻すかどうかのやり取りの渦中、物凄くさり気なくではあるのですが正式に「りっきー」呼びをしてみせました。6話の追いかけっこで「お前」「あんた」呼ばわりしていた間柄からの、一方的ながらも着実な関係者性の前進。そして楽奈がバンドしたがっていると知るや一目散にRiNGへ駆け出すなど、現時点で後のMyGO!!!!!の5人をきちんと視界に入れられているのは愛音ただ1人と言っていいでしょう。当初、燈ちゃんさえ手に入れられればグヘヘwwwという浅はかな考えで動いていた目立ちたがり屋は、今では最も真摯にバンドの絆を結ぼうと奔走するBanG Dreamer!――夢を撃ち抜き、キズナを奏でる者として立ち上がってきています。

クラスの中心に立つという愛音の当初の夢は、今や燈の関係者になることで撃ち抜かれ始めました。であれば、次はキズナを奏でること。立希をきちんと関係者にし、楽奈やそよの傷にも絆創膏という名のキズナを結ぶ――。その果てに同じ景色を見る星の鼓動を感じ合うのが、BanG Dreamer!としての至上命題です。全てにおいて解像度の低い世界で生きてきた少女が、MyGO!!!!!においては誰よりも明察に行く先を見通している。バンドリらしくない重苦しさが続く物語でありながら、やはりバンドを通して少女たちの気持ちのいい成長が感じられる物語にはなってきました。キラキラドキドキか、うじうじしくしくかの違いはあれど、その過程で描かれる少女の成長はどちらも紛れもなくBanG Dream!らしさを感じられます。

*1:出来ていなかったらコメント欄なりでご指摘お願いします。何卒。

*2:5話のタイムテーブルを見ると本来の予定では18時に燈たちのステージは終わるはずだったので、春日影により延長されて日没に至ったまでが正確なところかと思われます。

*3:have goneで「行ってしまった(もう戻らない)」という表現になることは、義務教育のレベルで誰でも教わったことでしょう。

*4:繰り返しますが、これは制作陣的には意図的です。