(※2020/5/24追記)
現時点において、本記事は”デタラメ”であったと自省しています。ですが、後の考察記事の足がかりになったことも事実であり、自戒の意味と、そして資料的価値はあると考え、記事自体は残しておくことにしました。
またもやキコニア記事は随分と間隔が空いてしまいました。それもこれもバンドリが楽しすぎるのと、最近趣味でお絵描きなんかも始めた影響ですね。Pixivに上げたりもしているので良ければ探してみて下さい。その結果、2月中にはキコニアPhase1の4周目を完遂しているつもりだったのに、3月になってもまだ突入すら出来ていません。こんなはずじゃなかったのに……。
とはいえ、キコニアを忘れてキラキラドキドキしていたわけではありません。むしろ、思考の迷路で右往左往していたからこそブログ記事を上げられなかったところが大きかったりします。しかし、遂にその迷路から抜け出し、そればかりかキコニアの核心ではないかというアイデアを思いつくことにも成功しました。本記事では、そんな自信のある説を発表します。
キコニア生まれとVR世界の相性の悪さ
冒頭でも述べたように、ここ最近の僕はキコニア考察に行き詰まっていたわけですが、何故かというとキコニア世界全体がVR世界だとは容認できないということを最大のアキレス腱としていたためでした。キコニアにVR世界が関与することは否定しません。ガントレットナイトの試合や訓練は基本的にシミュレーター内で行われていたこと、脳髄ぶっこ抜き工場の末に訪れる<天国>の存在、クリスマスパーティでガントレットナイト達が肉体の放棄を望んでいたこと等、VR世界を思わせる描写には枚挙に暇がなく、これがキコニアに関与しないと言い張るのは無理があるでしょう。ただ、それが部分的なものであれば良いのですが、キコニア世界全体にまで及んでしまうことだけは避けねばならない事情があります。キコニア世界全体がVRであるとすると、キコニア生まれであるか否かというテーマ性を破壊してしまうのです。
AOUにおいては希少なキコニア生まれである都雄が、周囲との出自の違いで苦悩している姿、そしてそれを受け止め認めようという多様性の精神は、本作の重要なテーマと言うべきものです。ですが、この世界がVR世界であるとするとどうなるでしょうか? キコニア生まれか工場生まれかにかかわらず電子データに変換されて生を受けるわけですから、登場人物全員の出自が同質性を帯びることとなってしまい、Phase1を通して描かれた都雄の生い立ちにおける苦悩がたちまちの内に陳腐化してしまいます。お前はキコニア生まれっていう”設定”なだけだよ、何悩んでんの?wと嘲笑すべきものになってしまうわけです*1。実は仮想世界でした~をやった同様の作品としてスターオーシャン3やダンガンロンパV3などがあるわけですが、そうした作品だって「俺たちの存在って何だったんだよ!」はやったけれども「この作品のテーマって何だったんだよ!」は流石にやっていません。テーマ性の破壊は、ロジックエラーよりも遥かに致命的な、物語の破綻と言って良いものです。それを前提とした考察には、どうしても僕は賛同できませんでした。
とはいえ、なごみさんの上記の考察などは非常に素晴らしいと思えるものでした。ジェイデンの人となり、動機の全てを織り込めており、本来ならば全面的に賛同したいのです。世界全体がシミュレーターであるという部分を除いては。
逆に言えば、キコニア生まれというテーマ性を破壊せずに実現できるVR世界であれば、僕は諸手を挙げて賛成に回れるところでもありました。なので、何か無いかと考えていたのです。キコニア生まれと工場生まれという出生の差異に意味があり、かつ世界全体をVR化できるような、そんな二律背反を実現した設定が……。
世界をパラレルプロセッシングする
答えはやはりキコニアのテキストの中にありました。パラレルプロセッシング。ガントレットナイトを扱える子供達に備わった同時並行的に物事を処理する能力のことを指しますが、転じて異論すらもひとまずは留め置いてその両者を吟味して議論していく、藤治郎が人類に求めた姿勢でもあります。つまりは全体がVRな世界も肉体が存在する世界も片方しかあり得ないと考えるのではなく、同時並行的に存在すると考えれば良いわけです。やったね!
と来れば、うみねこのような下位とメタの多層世界だとか、あるいはもっとシンプルに並行世界だとかの構造が思いつくわけですが、これらのパターンは事前に否定しておかなくてはなりません。まず、うみねこ多層世界は前章で述べたように肉体を持った都雄達(メタ)の出自がVR化(下位)される際に電子データに写像される段階でその存在の誕生が同質化されるわけですから、テーマ性の破壊を回避できません。並行世界となるともっと問題で、肉体のある都雄とVR世界の都雄は全く別人と言って良いため、その出自が互いに影響しないものになります。キコニア生まれというテーマ性をVR世界設定と両立するためには、VR都雄の出自と肉体を持つ都雄の出自が地続きである必要があるのです。いいえ、これだけ出生をテーマにしている作品なのですから、都雄だけでなく、全ての人物にそれが適用される必要があるでしょう。
もっと言えば、それぞれの世界は並行して存在しても良いのですが、それぞれの世界同士が相互干渉的である必要があります。最悪、干渉は不可能でもいいのですが、上の水槽の壁の比喩にもあるように、最低限、相互観測が可能である必要があると言えます。シュレディンガーの猫箱の例もあるように観測さえできれば互いの世界は影響し合えますし、作中で語られた多様性というテーマにも合致します。並行世界のようにお互いが無関係でいるのではなく、多層世界のように片方がもう片方を一方的に使役するのでもない。たとえ間に壁があっても、お互いがお互いの存在を認め合い、侵食はせず、時には影響し合う。そんな仕切られた世界群こそが、多様性を丁寧に描写したキコニアの構造として相応しいものではないでしょうか。
ですが、作中でも何度も「プレイヤーと駒」の概念が登場します。であれば、Phase1で語られた世界はうみねこと同様のゲーム盤であり、駒たる都雄達を操作するプレイヤーがメタ世界にいると考える方が自然なようにも思えます。ゲーム盤の目的が対戦であるならばの話ですが。
ここは発想を柔軟にしていきましょう。世に存在するゲームは、何も対戦を目的としたものばかりではありません。ハイスコアに挑戦するためだったり、恋愛を疑似体験するためだったり、考察を楽しむためだったり、仮想体験を作成するためだったりと様々です。であれば、キコニアのゲーム盤について、こういう想定も可能です。世界を創造することが目的のゲームなのではないかと。
創造主をパラレルプロセッシングする
作中でも預言書として存在感を放っている聖イオアンニスの黙示録。その元ネタは言うまでもなくヨハネの黙示録なわけですが、これを聖典とするキリスト教において、世界は唯一絶対の神が7日かけて創造したとされています*2。創造主は常に1人。それがキリスト教の、というよりはABN統一宗教の源流である三大宗教の基本原理です。うーん、これはいけませんね。パラレルプロセッシングが足りない!
AOUのガントレットナイト達が仮想体験を作成して遊んでいたことの延長として、世界そのものを自由に創造するゲーム盤を考えます。であれば、”プレイヤー”は創造主に当たりますし、その創造主は何人でも存在できることになります。
というか、世界を創造できる人間は、むしろ”プレイヤー”よりもゲームマスターと呼ぶべき存在でしょう。つまり、ゲームマスターすらも複数、それも同時に存在しているのです。そんな多数のゲームマスターがそれぞれ思い思いに世界を創造し、それぞれの世がまだら模様のように混ざり合い、混沌としている……それこそがキコニアの世界観であり、ゲーム盤なのではないでしょうか。
うみねこのゲーム盤もそのルールを完全に理解すれば誰でもゲームマスターへの就任が可能で、実際にEP5以降はベアト以外の人物がゲームマスターを務めました。その意味では複数のゲームマスターがいたと言えますが、やはり1つのゲームにゲームマスターは1人というのが絶対条件でした。ですが、キコニアは違います。ゲームマスターが同時に、何人でも存在できるのです。創造主の、そしてゲームマスターのパラレルプロセッシング、前作・うみねこを超えるゲーム盤としては、納得のスケールであると考えられます。
また、先程うみねこ式の多層世界を否定しておきました。本作にメタ世界は存在しない、存在していたとしても下位世界との相互観測が可能でなければならないと考えられるため、前作のようにゲームマスターは下位世界で起きる惨劇から無関係ではいられません。つまり、キコニアのゲームマスターは駒を兼ねます。世界を創造しているゲームマスターが、別のゲームマスターの創造する世界から影響を受けることもあるでしょう。そもそも、ゲームマスターにとって他のゲームマスターとただの駒を区別できません。
100億存在する人類の誰がゲームマスターを兼ねているのか分からない。ゲームマスターすらもそんな境遇に置かれているわけです。藤治郎はチェスにたとえましたが、対戦相手が着席してくれたか分からないのも当然でしょう。対戦相手の概念が存在しないゲームなのですから。ただし、ゲームマスターは駒でもあるため、他のゲームマスターの世界創造力によって盤外に追いやられる危険性は常に隣り合わせです。他のゲームマスターの作り出す世界を否定するために、ゲームマスターを直接攻撃することができる。その意味では、本質的には対戦ゲームではないものの、対戦ゲームのように振る舞うこともできるゲーム盤でもあると言えます。
ゲームのルール?難易度?私たちが決めるし、あんたには関係ない。
お前たちは取ったり取られたりして、私たちが喜ぶような喜怒哀楽を見せればいい。
いいこと?勘違いしないことよ。
お前は私の対戦相手じゃない。私を楽しませる為の、駒に過ぎないの。
今度のゲームは、
あんたにプレイヤーの席なんか与えない!
以上の考察を踏まえれば、公式サイトのあらすじのラスト2段は極めて明瞭になります。
まず、前段の主語が「私たち」、後段の主語が「私」へと変化していることに注目すべきでしょう。前段は語り部(私)が複数いるゲームマスター(私たち)の立場を代表して駒(お前たち)を牽制したものです。ゲームマスターはただの駒と違って、世界を創造する能力を持っています。その遥かな優越感から、無力な駒たちを見下し、己の立場を弁えさせるような態度を取っているわけです。うみねこの公式文書にもよく見られた形式かと思います。
一方で、後段になると挑発する相手が「お前」および「あんた」という単数形の存在に切り替わります。後段は他のゲームマスター(お前、あんた)も、語り部(私)から観れば駒なのだと宣言しているものです。とはいえ、これはどちらかと言えば驕慢というよりも虚勢に近いものがあると思われます。語り部本人とて他のゲームマスターから見れば駒同然の存在なのですから、語り部も他のゲームマスターの世界創造力によって”取られる”危険性を払拭できないのです。
黙示録を著した”神の代理人”とやらは確かに着席したそうですが、それがプレイヤーの席であるとまでは言われていません。プレイヤーの席なんかそもそも存在していない、そして、ゲームマスター自身も、他のゲームマスターの世界創造力に振り回される駒と同義。そんなゲーム盤の仕組みを端的に表したあらすじであると言えるでしょう。
分からないのは、前段・後段の両方に登場している「あんた」でしょうか。いわゆる竜騎士ノイズである可能性も否定はできないのですが、「お前」と「お前たち」の使い分けがされていることを加味するならば、「あんた」の用法にも明確な意図があり、語り部や駒や他のゲームマスターとは別個の存在であると考えたいところです。
世界創造の手段をパラレルプロセッシングする
さて、この記事はキコニア生まれ設定とVR世界設定の相性が悪すぎるという問題から始まったのでした。じゃあ世界も創造主もパラレルならその問題が解決できるのかという話になるのですが、出来ます。もうここまで来たらあとは単純で、現実世界を創造しているゲームマスターとVR世界を創造しているゲームマスターが同時に存在すれば良いだけです。多様な創造主=ゲームマスターが存在しているのですから、世界創造の手段もやはり同様にパラレルと考えるべきでしょう。
ちなみにこの記事は前後編に分割した記事の前編なので(えっ!?)、詳しくは後編の方に書くつもりですが、ジェイデンはおそらくVR世界を作り出しています。僕がVR世界設定に難色を示してきた原因は、VR世界になってしまうとキコニア生まれか否かの出自が無意味化されてしまうためでしたが、創造主が複数いる設定のもとではそれがむしろ強力な説得力へと転換します。都雄が苦悩してきた出自の違いが、VR世界では無意味化”できる”のです。都雄ちゃんを苦しめてきた世界を否定するための、VR世界創造。そしてこのゲーム盤では他のゲームマスターが駒をも兼ねるので、現実世界を作り出しているゲームマスターを盤面から排除すれば世界全体の完全VR化が実現できます。これこそが、Phase2の次回予告にてジェイデンが都雄ちゃんのためにと独善的に作り上げた「お前が望んだ世界」ではないかと思います。
ゲーム盤からの他のゲームマスターを排除する上で最も有効な手段は、やはり殺害です。しかし、それではその人物の駒としての資格も失われてしまいます。その点、脳髄ぶっこ抜き工場はゲームマスターの資格を失わせつつ駒としての資格だけを残す上で極めて有効な手段です。脳髄をぶっこ抜かれた人間は、もはや肉体世界を観測できずVR世界しか観測できなくなります。これはうみねこのメタ世界(現実世界)と下位世界(VR世界)の構造と同じであり、VR世界のみに囚えてしまえばゲームマスターとしての資格は失わせたも同然です。このようにしてVR世界を実現している人物もいると考えるべきでしょう。ただし、目的は一致しているもののこれを目論んでいるのはジェイデンではなく、ジェストレスであると僕は考えています。この辺も詳しくは後編でやりたいところです。
(2020/3/7追記)
「脳髄ぶっこ抜き工場でゲームマスターの資格を剥奪しつつ駒の資格を残せる」はおそらく間違った記述だろうと後に気づいたため、打ち消しました。藤治郎の元嫁が駒を辞められていること、先天性PPの別人格の存在を考慮する必要があることを踏まえるなら、駒の定義が必要です。現時点では僕もその定義ができていないため、駒の資格については何も述べることができない状態です。なお、脳髄ぶっこ抜き工場を目論んでいるのがジェストレスである点は変わらず主張しておきます。
また、現実とVRばかりを考えてきましたが、セルコンを使えばAR世界の創造も可能です。全人類がセルコンで観測される世界を疑わなくなれば、それはセルコンを牛耳る者が全ての情報を司ったも同然。僕はそれこそが文明の終端だと考えていますし、文明の終端にやってくるアイツとは、ケロポヨたちの”奥様”たるマザーコンピューターだと考えています。
以上が、キコニアのなく頃にのゲーム盤に対する僕の仮説となります。
同時発売のうみねこ咲では、没キャラのウェルギリアスが露骨な名探偵コナンパロをかましてくるシーンが見受けられましたが、名探偵コナンの代表的なセリフと言えば、「真実は、いつも1つ!」です。スクリーンショットにもある通り、うみねこの真実は1つではありませんでした。キコニアはこの『1つだと思われていたものが複数あった』を更に巨大なスケールでやろうとしているのではないでしょうか。世界はいつも1つ、創造主はいつも1人、ゲームマスターはいつも1人……そんな固定観念をぶち壊してパラレルプロセッシングしていく必要があるのかもしれません。
ちなみに途中で書いたように、本記事は前後編に分割しています。後編の内容は、キコニアの登場人物のうち誰がゲームマスターを兼ねていそうなのかを考察する記事にする予定です。
(※2020/4/21追記)
嘘をつきました。
途中の追記でも述べましたが、やはり駒の定義が出来ずに困っています。肉体の有無とするのが一番ハマるのですが、作中にそれと相反する台詞もあり*3、完全に行き詰まりを見せています。
ひとまず、後編記事は無期限凍結とし、現状の僕のゲーム盤解釈を簡潔にまとめておきます。
- キコニアのゲームマスターは複数、それも同時並行的に存在する
- ゲームマスターは世界を創造・改変・加工する”何らかの力”を持つ
- ”何らかの力”はゲームマスターごとに様々。VRやARの技術もそれに含まれる
- 作品のテーマ性上、各ゲームマスターの創造する世界は、原則として相互観測が可能でなければならない
- ゲームマスターは駒を兼ねる。他のゲームマスターが世界を創造する影響から無関係ではいられない
- ゲームマスターは他のゲームマスターが誰なのかを認識できない。このため、ゲームマスターと言えども他のゲームマスターは駒にしか見えない
- 世界の創造そのものが目的のゲーム盤だが、駒を兼ねる他のゲームマスターを排除しようと画策するならば、対戦を目的としたゲーム盤にもなり得る
- 駒の定義が出来ない(致命傷)