矛盾ケヴァット

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【キコニア】キコニアのゲーム盤は「パラレルゲームマスター」である

(※2020/5/24追記)

現時点において、本記事は”デタラメ”であったと自省しています。ですが、後の考察記事の足がかりになったことも事実であり、自戒の意味と、そして資料的価値はあると考え、記事自体は残しておくことにしました。

 

またもやキコニア記事は随分と間隔が空いてしまいました。それもこれもバンドリが楽しすぎるのと、最近趣味でお絵描きなんかも始めた影響ですね。Pixivに上げたりもしているので良ければ探してみて下さい。その結果、2月中にはキコニアPhase1の4周目を完遂しているつもりだったのに、3月になってもまだ突入すら出来ていません。こんなはずじゃなかったのに……。

とはいえ、キコニアを忘れてキラキラドキドキしていたわけではありません。むしろ、思考の迷路で右往左往していたからこそブログ記事を上げられなかったところが大きかったりします。しかし、遂にその迷路から抜け出し、そればかりかキコニアの核心ではないかというアイデアを思いつくことにも成功しました。本記事では、そんな自信のある説を発表します。

 

キコニア生まれとVR世界の相性の悪さ

冒頭でも述べたように、ここ最近の僕はキコニア考察に行き詰まっていたわけですが、何故かというとキコニア世界全体がVR世界だとは容認できないということを最大のアキレス腱としていたためでした。キコニアにVR世界が関与することは否定しません。ガントレットナイトの試合や訓練は基本的にシミュレーター内で行われていたこと、脳髄ぶっこ抜き工場の末に訪れる<天国>の存在、クリスマスパーティでガントレットナイト達が肉体の放棄を望んでいたこと等、VR世界を思わせる描写には枚挙に暇がなく、これがキコニアに関与しないと言い張るのは無理があるでしょう。ただ、それが部分的なものであれば良いのですが、キコニア世界全体にまで及んでしまうことだけは避けねばならない事情があります。キコニア世界全体がVRであるとすると、キコニア生まれであるか否かというテーマ性を破壊してしまうのです。

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AOUにおいては希少なキコニア生まれである都雄が、周囲との出自の違いで苦悩している姿、そしてそれを受け止め認めようという多様性の精神は、本作の重要なテーマと言うべきものです。ですが、この世界がVR世界であるとするとどうなるでしょうか? キコニア生まれか工場生まれかにかかわらず電子データに変換されて生を受けるわけですから、登場人物全員の出自が同質性を帯びることとなってしまい、Phase1を通して描かれた都雄の生い立ちにおける苦悩がたちまちの内に陳腐化してしまいます。お前はキコニア生まれっていう”設定”なだけだよ、何悩んでんの?wと嘲笑すべきものになってしまうわけです*1。実は仮想世界でした~をやった同様の作品としてスターオーシャン3ダンガンロンパV3などがあるわけですが、そうした作品だって「俺たちの存在って何だったんだよ!」はやったけれども「この作品のテーマって何だったんだよ!」は流石にやっていません。テーマ性の破壊は、ロジックエラーよりも遥かに致命的な、物語の破綻と言って良いものです。それを前提とした考察には、どうしても僕は賛同できませんでした。

とはいえ、なごみさんの上記の考察などは非常に素晴らしいと思えるものでした。ジェイデンの人となり、動機の全てを織り込めており、本来ならば全面的に賛同したいのです。世界全体がシミュレーターであるという部分を除いては

逆に言えば、キコニア生まれというテーマ性を破壊せずに実現できるVR世界であれば、僕は諸手を挙げて賛成に回れるところでもありました。なので、何か無いかと考えていたのです。キコニア生まれと工場生まれという出生の差異に意味があり、かつ世界全体をVR化できるような、そんな二律背反を実現した設定が……。

 

世界をパラレルプロセッシングする

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答えはやはりキコニアのテキストの中にありました。パラレルプロセッシングガントレットナイトを扱える子供達に備わった同時並行的に物事を処理する能力のことを指しますが、転じて異論すらもひとまずは留め置いてその両者を吟味して議論していく、藤治郎が人類に求めた姿勢でもあります。つまりは全体がVRな世界も肉体が存在する世界も片方しかあり得ないと考えるのではなく、同時並行的に存在すると考えれば良いわけです。やったね!

と来れば、うみねこのような下位とメタの多層世界だとか、あるいはもっとシンプルに並行世界だとかの構造が思いつくわけですが、これらのパターンは事前に否定しておかなくてはなりません。まず、うみねこ多層世界は前章で述べたように肉体を持った都雄達(メタ)の出自がVR化(下位)される際に電子データに写像される段階でその存在の誕生が同質化されるわけですから、テーマ性の破壊を回避できません。並行世界となるともっと問題で、肉体のある都雄とVR世界の都雄は全く別人と言って良いため、その出自が互いに影響しないものになります。キコニア生まれというテーマ性をVR世界設定と両立するためには、VR都雄の出自と肉体を持つ都雄の出自が地続きである必要があるのです。いいえ、これだけ出生をテーマにしている作品なのですから、都雄だけでなく、全ての人物にそれが適用される必要があるでしょう。

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もっと言えば、それぞれの世界は並行して存在しても良いのですが、それぞれの世界同士が相互干渉的である必要があります。最悪、干渉は不可能でもいいのですが、上の水槽の壁の比喩にもあるように、最低限、相互観測が可能である必要があると言えます。シュレディンガーの猫箱の例もあるように観測さえできれば互いの世界は影響し合えますし、作中で語られた多様性というテーマにも合致します。並行世界のようにお互いが無関係でいるのではなく、多層世界のように片方がもう片方を一方的に使役するのでもない。たとえ間に壁があっても、お互いがお互いの存在を認め合い、侵食はせず、時には影響し合う。そんな仕切られた世界群こそが、多様性を丁寧に描写したキコニアの構造として相応しいものではないでしょうか。

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ですが、作中でも何度も「プレイヤーと駒」の概念が登場します。であれば、Phase1で語られた世界はうみねこと同様のゲーム盤であり、駒たる都雄達を操作するプレイヤーがメタ世界にいると考える方が自然なようにも思えます。ゲーム盤の目的が対戦であるならばの話ですが

ここは発想を柔軟にしていきましょう。世に存在するゲームは、何も対戦を目的としたものばかりではありません。ハイスコアに挑戦するためだったり、恋愛を疑似体験するためだったり、考察を楽しむためだったり、仮想体験を作成するためだったりと様々です。であれば、キコニアのゲーム盤について、こういう想定も可能です。世界を創造することが目的のゲームなのではないかと。

 

創造主をパラレルプロセッシングする

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作中でも預言書として存在感を放っている聖イオアンニスの黙示録。その元ネタは言うまでもなくヨハネの黙示録なわけですが、これを聖典とするキリスト教において、世界は唯一絶対の神が7日かけて創造したとされています*2創造主は常に1人。それがキリスト教の、というよりはABN統一宗教の源流である三大宗教の基本原理です。うーん、これはいけませんね。パラレルプロセッシングが足りない!

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AOUガントレットナイト達が仮想体験を作成して遊んでいたことの延長として、世界そのものを自由に創造するゲーム盤を考えます。であれば、”プレイヤー”は創造主に当たりますし、その創造主は何人でも存在できることになります。

というか、世界を創造できる人間は、むしろ”プレイヤー”よりもゲームマスターと呼ぶべき存在でしょう。つまり、ゲームマスターすらも複数、それも同時に存在しているのです。そんな多数のゲームマスターがそれぞれ思い思いに世界を創造し、それぞれの世がまだら模様のように混ざり合い、混沌としている……それこそがキコニアの世界観であり、ゲーム盤なのではないでしょうか。

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うみねこのゲーム盤もそのルールを完全に理解すれば誰でもゲームマスターへの就任が可能で、実際にEP5以降はベアト以外の人物がゲームマスターを務めました。その意味では複数のゲームマスターがいたと言えますが、やはり1つのゲームにゲームマスターは1人というのが絶対条件でした。ですが、キコニアは違います。ゲームマスターが同時に、何人でも存在できるのです。創造主の、そしてゲームマスターのパラレルプロセッシング、前作・うみねこを超えるゲーム盤としては、納得のスケールであると考えられます。

また、先程うみねこ式の多層世界を否定しておきました。本作にメタ世界は存在しない、存在していたとしても下位世界との相互観測が可能でなければならないと考えられるため、前作のようにゲームマスターは下位世界で起きる惨劇から無関係ではいられません。つまり、キコニアのゲームマスターは駒を兼ねます。世界を創造しているゲームマスターが、別のゲームマスターの創造する世界から影響を受けることもあるでしょう。そもそも、ゲームマスターにとって他のゲームマスターとただの駒を区別できません

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 100億存在する人類の誰がゲームマスターを兼ねているのか分からないゲームマスターすらもそんな境遇に置かれているわけです。藤治郎はチェスにたとえましたが、対戦相手が着席してくれたか分からないのも当然でしょう。対戦相手の概念が存在しないゲームなのですから。ただし、ゲームマスターは駒でもあるため、他のゲームマスターの世界創造力によって盤外に追いやられる危険性は常に隣り合わせです。他のゲームマスターの作り出す世界を否定するために、ゲームマスターを直接攻撃することができる。その意味では、本質的には対戦ゲームではないものの、対戦ゲームのように振る舞うこともできるゲーム盤でもあると言えます。

ゲームのルール?難易度?私たちが決めるし、あんたには関係ない。

お前たちは取ったり取られたりして、私たちが喜ぶような喜怒哀楽を見せればいい。

いいこと?勘違いしないことよ。

 

お前は私の対戦相手じゃない。私を楽しませる為の、駒に過ぎないの。

今度のゲームは、

あんたにプレイヤーの席なんか与えない!

以上の考察を踏まえれば、公式サイトのあらすじのラスト2段は極めて明瞭になります。

まず、前段の主語が「私たち」、後段の主語が「私」へと変化していることに注目すべきでしょう。前段は語り部(私)が複数いるゲームマスター(私たち)の立場を代表して駒(お前たち)を牽制したものです。ゲームマスターはただの駒と違って、世界を創造する能力を持っています。その遥かな優越感から、無力な駒たちを見下し、己の立場を弁えさせるような態度を取っているわけです。うみねこの公式文書にもよく見られた形式かと思います。

一方で、後段になると挑発する相手が「お前」および「あんた」という単数形の存在に切り替わります。後段は他のゲームマスター(お前、あんた)も、語り部(私)から観れば駒なのだと宣言しているものです。とはいえ、これはどちらかと言えば驕慢というよりも虚勢に近いものがあると思われます。語り部本人とて他のゲームマスターから見れば駒同然の存在なのですから、語り部も他のゲームマスターの世界創造力によって”取られる”危険性を払拭できないのです。

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黙示録を著した”神の代理人”とやらは確かに着席したそうですが、それがプレイヤーの席であるとまでは言われていません。プレイヤーの席なんかそもそも存在していない、そして、ゲームマスター自身も、他のゲームマスターの世界創造力に振り回される駒と同義。そんなゲーム盤の仕組みを端的に表したあらすじであると言えるでしょう。

分からないのは、前段・後段の両方に登場している「あんた」でしょうか。いわゆる竜騎士ノイズである可能性も否定はできないのですが、「お前」と「お前たち」の使い分けがされていることを加味するならば、「あんた」の用法にも明確な意図があり、語り部や駒や他のゲームマスターとは別個の存在であると考えたいところです。

 

世界創造の手段をパラレルプロセッシングする

さて、この記事はキコニア生まれ設定とVR世界設定の相性が悪すぎるという問題から始まったのでした。じゃあ世界も創造主もパラレルならその問題が解決できるのかという話になるのですが、出来ます。もうここまで来たらあとは単純で、現実世界を創造しているゲームマスターVR世界を創造しているゲームマスターが同時に存在すれば良いだけです。多様な創造主=ゲームマスターが存在しているのですから、世界創造の手段もやはり同様にパラレルと考えるべきでしょう。

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ちなみにこの記事は前後編に分割した記事の前編なので(えっ!?)、詳しくは後編の方に書くつもりですが、ジェイデンはおそらくVR世界を作り出しています。僕がVR世界設定に難色を示してきた原因は、VR世界になってしまうとキコニア生まれか否かの出自が無意味化されてしまうためでしたが、創造主が複数いる設定のもとではそれがむしろ強力な説得力へと転換します。都雄が苦悩してきた出自の違いが、VR世界では無意味化”できる”のです。都雄ちゃんを苦しめてきた世界を否定するための、VR世界創造。そしてこのゲーム盤では他のゲームマスターが駒をも兼ねるので、現実世界を作り出しているゲームマスターを盤面から排除すれば世界全体の完全VR化が実現できます。これこそが、Phase2の次回予告にてジェイデンが都雄ちゃんのためにと独善的に作り上げた「お前が望んだ世界」ではないかと思います。

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ゲーム盤からの他のゲームマスターを排除する上で最も有効な手段は、やはり殺害です。しかし、それではその人物の駒としての資格も失われてしまいます。その点、脳髄ぶっこ抜き工場はゲームマスターの資格を失わせつつ駒としての資格だけを残す上で極めて有効な手段です。脳髄をぶっこ抜かれた人間は、もはや肉体世界を観測できずVR世界しか観測できなくなります。これはうみねこのメタ世界(現実世界)と下位世界(VR世界)の構造と同じであり、VR世界のみに囚えてしまえばゲームマスターとしての資格は失わせたも同然です。このようにしてVR世界を実現している人物もいると考えるべきでしょう。ただし、目的は一致しているもののこれを目論んでいるのはジェイデンではなく、ジェストレスであると僕は考えています。この辺も詳しくは後編でやりたいところです。

(2020/3/7追記)

「脳髄ぶっこ抜き工場でゲームマスターの資格を剥奪しつつ駒の資格を残せる」はおそらく間違った記述だろうと後に気づいたため、打ち消しました。藤治郎の元嫁が駒を辞められていること、先天性PPの別人格の存在を考慮する必要があることを踏まえるなら、駒の定義が必要です。現時点では僕もその定義ができていないため、駒の資格については何も述べることができない状態です。なお、脳髄ぶっこ抜き工場を目論んでいるのがジェストレスである点は変わらず主張しておきます。

また、現実とVRばかりを考えてきましたが、セルコンを使えばAR世界の創造も可能です。全人類がセルコンで観測される世界を疑わなくなれば、それはセルコンを牛耳る者が全ての情報を司ったも同然。僕はそれこそが文明の終端だと考えていますし、文明の終端にやってくるアイツとは、ケロポヨたちの”奥様”たるマザーコンピューターだと考えています。

 

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以上が、キコニアのなく頃にのゲーム盤に対する僕の仮説となります。

同時発売のうみねこ咲では、没キャラのウェルギリアスが露骨な名探偵コナンパロをかましてくるシーンが見受けられましたが、名探偵コナンの代表的なセリフと言えば、「真実は、いつも1つ!」です。スクリーンショットにもある通り、うみねこの真実は1つではありませんでした。キコニアはこの『1つだと思われていたものが複数あった』を更に巨大なスケールでやろうとしているのではないでしょうか。世界はいつも1つ、創造主はいつも1人、ゲームマスターはいつも1人……そんな固定観念をぶち壊してパラレルプロセッシングしていく必要があるのかもしれません。

ちなみに途中で書いたように、本記事は前後編に分割しています。後編の内容は、キコニアの登場人物のうち誰がゲームマスターを兼ねていそうなのかを考察する記事にする予定です。

 

(※2020/4/21追記)

嘘をつきました

途中の追記でも述べましたが、やはり駒の定義が出来ずに困っています。肉体の有無とするのが一番ハマるのですが、作中にそれと相反する台詞もあり*3、完全に行き詰まりを見せています。

ひとまず、後編記事は無期限凍結とし、現状の僕のゲーム盤解釈を簡潔にまとめておきます。

 

*1:青都雄が実際にそういう嘲笑をしてはいましたが、それはプログラムされた都雄の人格に対してのものであり、彼(?)ですら元いた”御岳都雄”という人物の出自まで否定したわけではありません

*2:よく言われることですが、7日目は休みなので事実上所要したのは6日です。

*3:セシャトの「ゲーム盤の上には自分達に見える駒以外いないと本気で信じてるからねー」という若者への嘲笑は、CPPの別人格も”駒”に相当すると読み取れます。

【バンドリ】今後LOUDERは演奏されなくなる。Roseliaが更なる高みへと到達するために

アニメ3期が絶賛展開中のバンドリですが、先日行われたRoseliaのライブにおいて非常に残念な出来事があったようです。LOUDERの無音区間にて悪意ある観客が「家虎」を行い、それによってブシロード木谷高明社長が家虎根絶への決意表明を行う事態にまで発展しました。

僕はライブには全然行かないタイプのオタクですし、ライブ中のマナーについては門外漢であるため、これ以上の深入りは出来ません。しかしながら、この事件は思わぬ方向に、それも物語を捻じ曲げかねない形で波及しています。LOUDER披露前に、湊友希那役の相羽あいなさんが「この曲は私達にとって大切な曲でした」と過去形で発言をしたそうで、これによって今後のライブにおいてLOUDERが見納めになるのではないかという憶測が立っています。そこまでは良いのですが、LOUDERをやらなくなるのが家虎のせいだからという風潮が少なからず醸成されつつあるようです。

マナーの悪い厄介者のせいで感情的な論調が先行したところは当然あるでしょう。そこは斟酌できますが、これは大きな誤解を孕んでいます。確かに、今後RoseliaのライブにおいてLOUDERを演奏しなくなる可能性は高いと言えます。しかし、それは家虎を未然に防ぐための予防的措置などでは決してなく、LOUDERを演奏しなくなることには物語上の明白な文脈と必然性が存在しているのです。にもかかわらず、今回の一件でその綿密に計算されたストーリーテリングの妙を、善良なファンすらも素直に受け止められなくなる可能性が生まれてきてしまったことに、極めて強い危機感を抱いています。

ネット世論がセンセーショナルな方向へと傾くのは避けられず、きっと今後LOUDERを封印したことが家虎対策であるかのように吹聴し回る野次馬は後を絶たないでしょう。本記事は、そうした”雑音”を少しでも振り払える一助になればと思い、書き上げました。本記事を読まれた方にとってのLOUDERが、”雑音”のないクリアなものに戻ることを祈っています。

 

オリジナル曲でもあり、カバー曲でもあるLOUDER

そもそも、LOUDERはバンドリ!プロジェクトの数ある楽曲群の中においても極めて異質な存在です。元々、この曲は湊友希那の父が現役のバンドマンであった頃に書き上げた曲で、ふとしたきっかけから友希那がそのカセットテープ音源を発見し、その迸らんばかりの音楽への純粋な情熱に圧倒されます。父の無念を晴らそうと復讐心から音楽に打ち込んでいた友希那は、今の自分の不純さではこの曲を歌う資格は無いと考え、一度はLOUDERを歌うことを諦めてしまいました。しかし、幼馴染みの今井リサと、誰あろう友希那の父本人から、完成された音楽を追求する友希那への思いは父に負けず劣らずの純粋さであると諭されることにより、その懊悩をも歌に込めることでLOUDERはRoseliaの楽曲として蘇ることとなったのです。

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リズムゲームであるバンドリ!ガールズバンドパーティ!(以下、ガルパ)には、大きく分けてオリジナル曲とカバー曲という区分があります。カバー曲はアニメソング、J-POP、ボカロ曲といったいわゆる”版権もの”を指すわけですから、LOUDERはその区分に従えば紛れもなくオリジナル曲です。しかしながら、ユーザーにとってはオリジナル曲でも友希那たち作中の人物にとってはカバー曲なのです。上記のスクリーンショットはLOUDERの物語を描いた『思い繋ぐ、未完成な歌』で実際に友希那が発しているセリフであり、LOUDERが非常に特殊な立ち位置にあることを物語っていると言えます。

ちなみに、LOUDERと同じくオリジナル曲とカバー曲という二面性を持った楽曲は、他に3曲存在します。かつて夢を撃ち抜こうと活動していた伝説のロックバンド・RAZESが遺し、Poppin'Partyを結成へと導いたYes! BanG_Dream!Pastel*Palettesに触れたAfterglowの心境の変化を歌ったY.O.L.O!!!!!、そして『ホープフルセッション』イベントにおいて月島まりなのバンドが解散する際に作られ、友希那・麻弥・香澄・りみ・つぐみの5人の即席バンドで演奏したHOPEです。LOUDERも含めた4曲に共通しているものとして、そのどれもが元のバンドの思いを受け継いで歌う曲という意味合いを帯びています。

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特に、Y.O.L.O!!!!!がパスパレのために作られた楽曲でありながら、Afterglowのオリジナル曲として扱われている点には留意する必要があります。LOUDER、Yes! BanG_Dream!、HOPEの3曲は埋もれかけていたところを発掘された「幻の曲」という側面が強いのですが、パスパレ版Y.O.L.O!!!!!に限ってはライブでも披露した描写があるなど、作中でも「パスパレの曲」としてそれなりの知名度を誇っています。ですが、ガルパのゲームシステム上は、そして我々ガルパユーザーにとってのY.O.L.O!!!!!はやはり「Afterglowの曲」なのです*1。オリジナル曲としての在り方とカバー曲としての在り方が最も剥離した楽曲として、そしてその剥離が間違いなく意図的に演出されている楽曲として、LOUDERを考える上でも注目すべき存在です。

 

FWFで演奏するに相応しい楽曲はLOUDERなのか?

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全三部作であるノーブル・ローズも最終章を残すところとなり、いよいよFUTURE WORLD FES.(以下、FWF)の本番が間近となっています。来たる3月には遂に夢の舞台に立つRoseliaの姿が描かれるでしょうし、今から待ち遠しくてなりません。そして、父の無念を晴らすためにFWFを目指し続けた湊友希那が頂点で歌い上げるに相応しい楽曲は、やはり当然に父の思いを受け継いだLOUDERになるはずです。かつてまでならば

ここで先程のY.O.L.O!!!!!の議論が役に立ちます。LOUDERがメジャーデビュー前の、FWFにも認められるはずだった友希那の父の音楽であることは間違いない事実なのですが、どこまで行ってもやはり借り物は借り物です。どれだけLOUDERがFWFと強固に結びついた楽曲であるとしても、Roseliaの活動を通じて自らへの誇りと他者への尊重を積み上げてきた彼女らの集大成を飾るのが果たして“カバー曲”で良いのかには疑問の余地があります。

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もう一つ問題なのは、LOUDERが非常に初期の、まだ精神的に未熟だった頃のRoseliaがカバーした曲であるという点です。『ホープフルセッション』においてHOPEをカバーする際、スタジオミュージシャンとしての癖からついつい自分を押し殺して原曲を”なぞる”ような演奏をする大和麻弥を湊友希那が叱責するシーンがありました。一見何気ないシーンに見えますが、このイベントにおいてHOPEとLOUDERが重ねられて描かれていたことを意識すると、また違った味わいが生まれてきます。機械のように正確な演奏しか出来ないことに悩んだ氷川紗夜が、LOUDERをカバーする際も原曲の音源通りに演奏しなかったわけがないのです。

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現在でこそ友希那は他のメンバーの音にしっかりと耳を傾け、そして受け止められるリーダーへと成長しています。しかし、これは物語を通じて段階的に手にしていった強さであり、『思い繋ぐ、未完成な歌』という最初期の時点においては到底そんな余裕を持ち合わせてはいませんでした*2。当時から妥協なく音楽を追求する人物ではあったものの、それは主として技術面に対してのものであり、メンバーの個性にまではまだまだ目を向けられてはいなかったはずです。

この点を踏まえて想像してほしいのですが、当時の紗夜が音源通りにLOUDERを演奏するのを、今の友希那が聴いたらどうなるでしょうか? 『ホープフルセッション』で麻弥にそうしたように、紗夜にもダメ出しをした可能性は否定できないと思われます。昔の友希那であれば気づけなかった「個性を殺す演奏」に、今の友希那ならば気づくことができるのです*3

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無論、『思い繋ぐ、未完成な歌』はそういった未熟な部分さえも今の自分たちの音楽を形作るものだという趣旨のシナリオでしたし、LOUDERもその未熟さを肯定した上でカバーしたからこそ輝きを放っている楽曲です。しかし、逆に言えばLOUDERは初期Roseliaの未熟さの象徴ですらあります。であればこそ、精神的に円熟し気高き薔薇として咲き誇りつつある“今のRoselia”としてFWFで見せつける曲がLOUDERで良いのかは大きな疑問になってくるのです。

 

そしてLOUDESTへ

とはいえ、以上までの考察は別に今後リアルバンドのRoseliaがLOUDERを披露しなくなる理由には何一つとしてなっていません。LOUDERがもはや今のRoseliaにとってFWFで演奏するに相応しくないのであればFWFで演奏しなければ良いだけの話であり、別に他のライブではいくらでも演奏できるでしょう。次元を1つ跨いでいるリアルバンドならば尚更で、今まで通り気兼ねなく演奏し続ければ良いはずです。LOUDERが今後も存在し続ける楽曲ならばの話ですが

ここまで一つ本題を隠してきたことを謝罪しましょう。僕はLOUDERが封印されるよりも遥かに大きな変化が起こると考えています。LOUDERそのものが別の楽曲に“転生”する、そう予想しているのです。

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『ノーブル・ローズ -晦冥の導き手-』ラストでの、FWFに向けた湊友希那の決意のシーンは、それを示唆したものになっています。やはりLOUDERは父の思いを継いだ特別な意味を持つ曲ではありますが、FWFという父が見られなかった景色を見られる舞台に立つ以上、LOUDERのその先へと向かうような楽曲が必要なのです。それもLOUDERをきちんと受け継ぎ、その上で踏み越えるような楽曲が……。

ここからは些か憶測の領域になってくるのですが、僕は友希那の言う「どう歩くか」は、LOUDERを今のRoseliaの円熟に合わせてセルフアレンジしたものに変えてFWFに挑むのではないかと考えています。父の思いをきちんと受け継いでFWFの舞台に立つこと、そして今のRoseliaの姿を聴衆に刻みつけることを両立するには、これしかないのではないでしょうか。

そして、その際に曲名もLOUDESTに変わるのではないかとも予想されます。比較級のLOUDERを受け継ぎ超えたものとして、そして頂点に立つ確固たる意志の表れとして、LOUDERが生まれ変わる上でこれ以上相応しい単語は他に存在しないでしょう。曲名が変わることによって、父の思いを継いだ曲をカバー曲ではなくオリジナル曲にすることもできるのです。

 

ここまでの考察を踏まえて頂ければ、相羽あいなさんの「この曲は私達にとって大切な曲でした」という発言も、きちんとした物語上の意味が込められたものなのがお分かり頂けるかと思います。それが家虎という”雑音”によって不要な意味合いが与えられてしまったこと、そしておそらく最後のLOUDERだった先日の演奏に水が差されてしまったことが、本当に残念でなりません。

目前に迫ったノーブル・ローズ第三部にて、LOUDERを過去のものにする必然性があったことが確かな物語とともに提示されることになるでしょう。その時には、こうした”雑音”のような邪魔するものを振り落として、Roseliaの色が取り戻されていることを願ってやみません。

“雑音”を掻き消すことが出来るのは、よりラウドで淀みなく澄んだ音のみであると、そしてそれをRoselia自身が奏でてくれると、僕は固く信じています。

*1:そもそも、パスパレ版Y.O.L.O!!!!!はつい最近まで存在は知られていながら誰もそれを聴いたことがない伝説上の楽曲のようなものでした。「まんまるお山に彩りスペシャル」で披露されたことで、2年以上かけてようやく実体化したことになります。

*2:決定的に今のリーダー像になったのはやはり『Neo-Aspect』が契機です。

*3:とはいえ、紗夜の「自分の音」は一見無個性な正確すぎる演奏すらも個性だと受け止める形で進展していくとは思います。そのため、今の紗夜の正確な演奏を今の友希那が聴いても、「紗夜らしい音」と受け入れるでしょう。

【キコニア】「LATOの女の子は外国の億万長者を狙ってる」←それっておかしくねぇ?だってここLATOじゃん

キコニア記事はそこそこ久しぶりになってしまいました。バンドリ!の方が激動の展開だったのでそちらに注力していたのが全てなのですが、07th Expansionとしても大きな動きがありましたね。ひぐらしの新アニメプロジェクトが発表されました。

成程、こんなビッグプロジェクトが水面下で動いてたんならキコニアPhase2の発売延期も致し方ないねと色々納得してしまいましたが、ともあれめでたいニュースには変わりありません。まあ、期待よりは不安の方が大きいのが正直なところですが……*1

それはさておき、久々のキコニア記事です。もしかしたら記事タイトルに既視感が有る方もいらっしゃるかもしれませんが、だとすると当ブログの記事を読んで下さっている方ですね。ありがたいことです。

本記事も上の記事と同様、キコニアの各陣営に根付く倫理観の、根本的な違和感について述べたものになります。

 

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A3Wの覇権陣営、LATO。霊素資源に恵まれ、人々は何不自由ない暮らしをしていますが、そんな中にあっても女性達はより裕福な相手との恋を望むようです。まったく、人の欲望とは尽きないものだと肩を竦めたくもなりますが、このシーンにはかなりの違和感を覚えてしまいます。まず、玉の輿自体が女性蔑視の概念であるという点。主としてAOUの制度を通してジェンダー問題にも鋭く切り込んだ本作ですが、世界のリーダーを名乗るLATOのジェンダー倫理がAOUに劣るというのは少々考えづらいでしょう*2。LATOがキコニアを追い払ったかどうかは未だ判然としないものの、最も先進的な陣営であるべきLATOにおいて、女性のキャリア形成が男性頼みであるかのような描写は引っ掛かるところです。

……というのは本題ではなく、もっと根本的におかしい点がこの描写には含まれています。いや、ここLATOですよ? こんなセリフが出てくるなんてあり得ないとは思いませんか?

 

 

 

だって、LATOの方が億万長者見つけやすいに決まってるじゃん!!!

 

 

 

そう、問題は玉の輿云々ではなく、「億万長者」の枕詞に「外国の」が付属している点にあります*3。単純に、億万長者の絶対数はLATOがどの陣営よりも多いはずで、いくらLATOのリゾート産業が盛んで観光客も多く訪れるとはいえ、他4陣営から探すよりLATOから手近に見繕った方が玉の輿には手っ取り早いはずなのです。

ABNやACR以上に社会制度がブラックボックスなLATOのことですし、この原因を断定するのはハッキリ言って不可能です。パッと思い浮かぶだけでも、社会主義のようになっていて平均値は高いけど億万長者は実は少ないとか、LATO男性と結婚すると女性の財産は男性のものと見做されるような差別的な制度が実はあるとか、現実的かどうかはともかく否定しきれない案はいくらでも考えつきます。

しかし、ここで敢えてもっと突飛な、けれども作品のテーマに沿った仮説を提唱したいと思います。LATO女性が外国の億万長者に求めているのは財産ではなく、その希少性であるというものです。

 

以前の記事でも触れましたが、情報量という概念があります。本来であれば記事を読んでいただきたいのですが当該記事の出来が正直あまり良くないため再度ここで解説すると*4、情報量は生起確率の高いものほど値が小さく、低いものほど値が大きいという、情報の”価値”を相対化した概念です。全ての事象の情報量について総和を取ると情報エントロピーとなり、これは熱力学のエントロピーと密接に結びついていると言われています。そして、霊素やドライツィヒ変換といった設定のベースはこの情報エントロピーであろうと僕は睨んでいます。

さて、LATOの社会情勢を思えば、外国の億万長者との恋愛・結婚・出産は極めて情報量の大きい出来事です。そして、『その社会制度においては非常に希少な婚姻』に、どこかで見覚えはないでしょうか……?

再度同じ記事のリンクを貼って恐縮ですが、AOUの近親婚も同様に希少な関係の婚姻と言えます。本記事のタイトルを当該記事になぞらえたのはノリや勢いではありません。AOUの近親婚と、LATOの国際玉の輿婚は、情報量が大きい婚姻という点で同じなのです。

そして更に飛躍しますが、この事実はまた別の可能性を示唆します。社会的に生起確率の低い(=情報量の大きい)親同士の配合から生まれてくるのがパラレルプロセッサーであるというものです。勿論これに科学的な根拠は一切ありませんが、優れた脳の持ち主が情報量の大きな関係から生まれる、というのは物語の設定として十分な説得力を持っているとは思います。何より、これならば「外国の億万長者との恋がしたい」というLATO女性達の動機も明白になります。優秀な子供を生みたい、それが彼女達のホワイダニットです*5

発想を柔軟にしましょう。SFというキッチリとした科学ゲームではなく。連想、妄想、何でもアリのインスピレーションで攻めるべきなのです。

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AOUやLATO以外でも、こうしたそれぞれの社会特有の生起しづらい<奇跡>の交配が各陣営に存在しているものと考えられます。たとえば、ABNなんかだと統一宗教の信者と”異教徒”の婚姻になるでしょうか。また、これが何人かのキャラクターのルーツにも絡む可能性が高そうで、キャラクターを考える上でも避けては通れないものになるかもしれません。

近々、僕はキコニア本編を再び通読するつもりでいますが、こうした「それっておかしくねぇ?」と言える描写を発見したいと思います。

*1:僕はディーン版のアニメひぐらしを映像化作品として高く評価しており、その秀作を超えなければいけないにもかかわらず、作品の質を大きく左右する監督の名前が最初のプロモーション時点で出てこないところに、特に大きな不信感を抱いています。

*2:まあAOUAOUで第二秘書なんて制度が公然と存在するくらいにはジェンダー観が歪んでいるわけですが。

*3:「他陣営の億万長者」ではない=LATO内の他国の億万長者を含むという解釈もできますが、作中で何度も国と陣営は混同して表記されていることを鑑み、本記事ではその可能性は扱わないこととします。

*4:僕自身、当該記事を書いている時点では情報量や情報エントロピーを理解しかねていましたし、後日改めてちゃんと整理した記事を書こうと考えています。

*5:当然、LATOがキコニアを追い払っている場合、自分で出産する必要はありません。ただ、生まれてくる子供が超優秀だと分かりきっているならば、工場に送らずに「わしが育てた」をやりたいというのが人情でしょう。相手が億万長者なので育児費用を気にする必要もありません。